石田三成の実像1420 直江兼続が春日大社に奉納した釣灯篭2 上杉家の春日信仰の篤さ

画像
写真は春日大社の直江兼続奉納の釣灯篭がある付近の様子を6月30日に撮ったものです。兼続の釣灯篭はこの写真には直接写っていませんが、右側の釣灯篭が並んでいるところにあります。写真の真ん中の奥に御本殿があります。
 直江兼続奉納の釣灯篭の寄進者は「兼続の息女」になっていますが、このことについて、説明掲示板には、「火袋の銘文から慶長5年(1600)に直江兼続の娘である於松からの奉納がわかる。しかし於松は当時10代半ばで元神主家の記録に『直江山城守様灯篭』の記述があることからも、直江兼続から依頼を受けての奉納が窺われる。兼続は天正16年(1588)に上杉景勝と共に参拝。正室のお船も寛永2年(1625)に参拝している」と記されています。
 於松は天正13年生まれですから、慶長5年には16歳です。慶長9年に本多正信の次男の政重と結婚しましたが、徳川幕府と良い関係を築いておこうという思惑があったものと思われます。しかし、於松は慶長10年に亡くなりました。
 お船の方は天正19年頃、景勝の正室である菊姫と上洛し、それ以来人質として上方におり、慶長5年の時点でも同様でした。於松も灯篭を奉納した時、上方にいたのでしょうか。灯篭の奉納について、同説明掲示板には「春日の神様に直江家の安泰を祈って奉納されたものと考えられる」と記されていますが、関ヶ原の戦いの戦後処理で主家の上杉家自体の存続さえ危うい時期でしたから、上杉家の安泰も願っていたに違いなく、そういう兼続の意向を受けて於松が灯篭を寄進したのではないでしょうか。
 上杉景勝と直江兼続の天正16年の上洛は2度目のことであり、最初の天正14年の上洛の際は、上杉家との取次を務めている三成が金沢付近までわざわざ出迎えています。その初上洛の時、京で本圀寺を宿にするよう勧めたのも三成でした。
 春日大社と上杉家・直江家との関係について、同説明掲示板には、「直江家が仕えていた上杉家は藤原氏の末裔であったことから、春日社への信仰は極めて篤く、居城があった山に春日社を勧請し春日山に改称している。また歴代当主から奉納された石灯篭や武具などが今も伝わっており、春日信仰の篤さも物語っている」と記されています。
 秀吉は関白に就任するため、近衛前久の猶子になり、藤原氏を名乗りました(後に豊臣氏を名乗ります)。そういう関係で、秀吉は藤原氏の氏神を祀る春日大社を厚遇し、9000石余りの社領を与えています。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 3

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック