日本文学探訪113 山川登美子記念館1 与謝野鉄幹・晶子との出会い・日本女子大停学処分・終焉の間

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 写真は山川登美子記念館を昨年の12月24日に撮ったものです。この日は午前中に北の庄城址・福井城址を回った後、JRに乗り、再び敦賀に戻り、小浜線に乗り換え、小浜を訪ねました。小浜もいろいろ回りたかったのですが、クリスマス・イブとあって夜には家に戻らねばならなかったので、山川登美子記念館にだけ行きました。ここはかねてから訪ねたいと思っていたところであり、登美子の生家が記念館になっています。
 山川登美子は学生時代から興味・関心がありましたが、高校の国語科教員となってからも、与謝野晶子や鉄幹の歌を教材として扱った時に、2人の人生をプリントにしてまとめましたが、山川登美子も絡めて記し、そのプリントを生徒に配布し、説明しました。
 そのプリントが手元に残っていますが、山川登美子に関係したところでは、明治33年(1900)8月に晶子は山川登美子と共に、来阪した鉄幹に初めて対面したこと、同年11月、鉄幹、晶子、登美子の3人で京都で遊んだこと、12月に登美子は親の決めた相手と故郷で結婚したこと、晶子は翌年1月、鉄幹と京都で再遊し、6月に家を捨て東京の鉄幹のもとへ行ったこと、8月に歌集「みだれ髪」を出版し、10月に二人は結婚したこと、明治42年4月、山川登美子は29歳の若さで亡くなったことなどを載せました。
 記念館には、登美子が使っていたかんざし、くし、針箱、筝、嫁入りした時に親から渡されたふところ刀(時代性を感じさせました)、合同詩集の「恋衣」、鉄幹が朱色の筆で添削した歌の原稿、辞世の歌などが展示されていました。登美子終焉の間も公開されていましたが、ここで亡くなったのかと思うと、感慨深いものがありました。床の間付の座敷、応接間、和室も公開されていましたが、展示物をはじめ各部屋について、係員さんの丁寧な説明を受けました。登美子・晶子・増田雅子が「恋衣」を出版した時には、登美子と雅子は日本女子大学に在籍していました(登美子は夫の死後に入学)が、日本女子大学は広岡浅子が設立したことも係員さんが触れていましたが、ここにも朝ドラの影響があらわれていると感じました。登美子と雅子が入学したのは明治37年でしたが、「恋衣」出版で二人とも停学処分を受けました。
 応接室には登美子の生涯を8分にまとめたビデオが置いてあり、これも見ました。
 登美子の辞世の歌は「父君に召されて去(い)なむ永久(とことは)の夢あたたかき蓬莱の島」というものであり、死の2日前に弟に紙を硯を運ばせて、自ら書きました。父親が亡くなったのは、その前年のことであり、登美子が京都で病気の療養をしていた(登美子は夫から結核をうつされ、夫はすでに明治35年に亡くなっています。わずか2年の結婚生活でした)時、父危篤の知らせを受けて帰郷し、そのまま登美子自身も亡くなりました。

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