日本文学探訪118 山川登美子記念館5 昭和50年の拙文「『明星』における白百合」4 身の不幸を歌う

画像
 写真は山川登美子記念館の表座敷の床の間付近を昨年12月24日に撮ったものです。登美子が住んでいた当時のままではないかもしれませんが、格式のある旧家であることを感じさせます。
 さて、昭和50年12月に書いた拙文「白百合と題して」の第1章「『明星』における白百合」を随時紹介していますが、その続きです。

 ライバル登美子が退いていったため、鉄幹と晶子が結びつくのは時間の問題であった。明治34年、晶子は家出同然にして東京へ行き、鉄幹と同棲する。8月に正式に結婚。処女歌集「みだれ髪」を出す。
 それに比べて、登美子の不幸は続く。夫が結核にかかり、看病をつくした登美子の甲斐もむなしく、35年12月夫を喪う。わずか2年の結婚生活であった。

 いかならむ遠きむくいかにくしみか生れて幸(さち)に折らむ指なき
 今の我に世なく神なくほとけなし運命するどき斧ふるひ来よ
 帰り来む御魂と聞かば凍る夜の千夜(ちよ)も御墓の石いだかまし

 夫の病気と共に故郷へ帰っていた登美子は、明治37年4月、再び東京に出て日本女子大学英文科予科に入学し、再出発をはかろうとする。与謝野晶子、増田雅子、彼女との3人で歌集「恋衣」を刊行する運びになるが、そのことによって大学から停学処分を受ける。それに反抗して登美子は次のような歌を詠んでいる。

 歌よみて罪せられきと光ある今の世を見よ後の千とせに

 38年1月に「恋衣」は刊行される。登美子の歌は「白百合」と題して131首収められている。彼女にとってこれが唯一の歌集となった。彼女の不幸を反映して哀切きわまりない歌が多い。
 その年の11月、腎臓炎で入院してからは死ぬまで病気につきまとわれていた彼女であった。翌年には結核と診断される。

 人知れず終りの歌は書きてあり病いよいよ良からずもあれ(39年1月)

 

 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック