日本文学探訪119 広岡浅子と山川登美子の接点?2 「『明星』における白百合」5  晩年の歌

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 写真は土佐堀川から大同生命本社ビル(正面に見えているビル)方面を見て撮ったものです。高速道路が走っていて、ビルが見えにくくなっています。前に見える橋は渡辺橋であり、南北に四つ橋筋が通っています。今の四つ橋筋をはさんで、かつて東に広岡浅子が嫁いだ加島屋(現大同生命ビル)、西の少し南側に歌人の山川登美子が通った梅花女学校がありました。
 広岡浅子と山川登美子に接点があるような気がしてならないのですが、昭和48年発行の坂本政親氏編著の「山川登美子全集」に次のようなことが記されています。
 「梅花女学校を選んだのは、直ぐ上の姉みち(明治7年10月生)が、それより2年前の26年6月に同校を卒業しているという縁によったものであろう。その上、長姉のいよ(慶応元年)が大阪の北浜に住む株式仲買人河久右衛門に嫁いでおり、そこに安心して預けられるという便宜もあった」と。
 登美子は北浜から梅花女学校に通っていますから、加島屋の前を通っていたかもしれませんし、河久右衛門や長姉などから加島屋のことを聞いていた可能性もあります。
 登美子が入学した当時の校風や成瀬仁蔵のことも、同書には記されています。
 「登美子の入学した頃は、女子教育研究のためかねて渡米中だった成瀬仁蔵(のち日本女子大学校の創設に与かる)が、その前年帰朝して第四代の校長になり、宗教的精神を根幹とした西洋風の新教育を施していた時であったから、自由で清新な気風が全校に溢れていたという」と。
 また後に登美子が日本女子大学校に入るきっかけとして、「かねて尊敬してやまなかった」成瀬が創設したという「親近感も大いに手伝っていたことと思われる」と記されています。日本女子大学校創設に、広岡浅子もかかわっていますから、ここでも接点はあったのではないかと思われます。
 さて、昭和50年12月に書いた拙文「白百合と題して」の第1章「『明星』における白百合」を随時紹介していますが、その続きです。

 明治40年2月には日本女子大を退学、さらに翌年父を喪い、彼女の病は重くなって、そのまま郷里にとどまる。彼女の「明星」への出詠は41年5月で終わり、10月の終刊には名を連ねることができなかった。
 
 雲居にぞ待ちませ父よこの子をも神は召します共に往なまし
 わが柩(ひつぎ)まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく
 わかき身のかかる嘆きに世を去ると思はで経にし日も遠きかな

 自分の死をひたすら待つのみとなっている彼女の悲惨さは言うべくもない。
 42年4月15日永眠。満29才の若さであった。死の2日前、看護をしていた弟亮に紙と硯を選ばせて、詠んだ歌が最後であった。

 父君に召されて往なむ永久(とことは)の夢あたたかき蓬莱の島


 

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