日本文学探訪117梅花女学校発祥の地碑 広岡浅子と山川登美子の接点? 「『明星』における白百合」3

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 写真は梅花女学校発祥の地碑を昨日に撮ったものです。昨日は新たに豊臣期大坂城の石垣内側から見つかった大坂夏の陣の焼け土の層などについての現地説明会に行った(こについては後述します)あと、肥後橋に足を伸ばしてこの碑を見て、近くにある大同生命大阪本社ビル(加島屋跡地)で開かれている「広岡浅子の生涯」展を見学(二度目)して、その後、玉造へ行き、明星学園に建立されたばかりの真田丸碑、その前にある心眼寺を訪ねました(これについても後述します)。
 梅花女学校発祥の地碑は大同生命保険会社発行の「広岡浅子ゆかりマップ」に掲載されており、次のように解説されています。
 「梅花女学校の主任教師(アメリカ留学後校長に就任)成瀬仁蔵は、福沢諭吉、新島襄と並んで日本三大教育者の一人とされ、1901(明治34)年に日本女子大学校(現在の日本女子大学)を創設。浅子は、成瀬の『女子教育』に深く賛同し、大学設立に向けて大きく関与しました。また成瀬の影響から浅子はキリスト教の洗礼を受けています」と。
 浅子が洗礼を受けた「日本基督教団 大阪教会」は、この梅花女学校発祥の地碑から歩いて10分もかからないところにあります。山川登美子は梅花女学校の出身であり、浅子が創設に関わった日本女子大学の出身でもありましたから、浅子と登美子は会ったことはなくても、ちょっした接点はあったかもしれません。与謝野晶子・山川登美子たちが歌集「恋衣」を出版したことで、登美子は日本女子大学から停学処分を受けましたから、浅子は登美子の名前ぐらいは知っており、登美子も浅子の名を知っていた可能性もあります。そういうことを考えるのも、歴史の面白さです。
 さて、昭和50年12月の拙文「白百合と題して」の第1章「『明星』における白百合」を随時紹介していますが、その続きです。
 
 (明治33年)11月5日、鉄幹、晶子、登美子の3人は京都永観堂の紅葉を観賞した後、粟田山麓の辻野旅館に投宿した。近く郷里に帰らねばならぬ登美子をはじめ、鉄幹にも妻の林滝野との離婚問題があり、晶子にも実家とのトラブルがあったので、三人三様にうらぶれた気持ちを抱いていたのである。

 をみなへしをとこへし唯うらぶれて恨みあへるを秋の京に見し (登美子) 三たりをば世にうらぶれしはらからとわれ先ず云ひぬ西の京の宿 (晶子)

11月14日、晶子は登美子を堺の自宅に伴なって泊め、登美子は次の日若狭へ帰って行った。意にそまぬ結婚をするために。

 それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ

 右の歌は、登美子が晶子と住の江に遊んだ時の歌であるが、鉄幹へのおもいを断ち切り身を引かねばならない悲痛なおももちが一首によく表れている。とりわけ、「そむきて泣きて」という「て」を二つ重ねた強い感情表現に、彼女の苦しみのほどがうかがわれる。
 12月、登美子は親の決めた結婚相手、一族の山川駐一郎と結婚、東京へ行く。

 たえんまで泣きてもだえて指さきてかくては猶も人恋わたる(34年1月)

 鉄幹への思いは消しようもない。
  

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この記事へのコメント

2016年02月13日 22:48
ブログに不慣れです。うまく届くかどうかわかりませんが、雑誌「短歌」1976年12月号、「この望み失い候へば」という記事をご存じでしょうか。成瀬仁蔵の旧宅を整理していた時に出てきた登美子から仁蔵宛の手紙についての記事です。涙なくては読めません。
登美子の父は銀行の頭取でしたから、浅子との縁もあったやに思えます。
2/11~12日、NHK朝ドラ「あさが来た」では成瀬らしい人物が登場しています。
色々な想いを持って見ています。
2016年02月14日 01:41
 地の旅人さん、貴重な情報、どうもありがとうございました。
 その手紙については、知りませんでした。手元に昭和48年発行の「山川登美子全集」があり、登美子関係の書簡も掲載されていますが、むろん、その手紙はその後で発見されたものですから、載っていません。どのような内容の手紙か、大いに興味を惹かれました。
 山川登美子が梅花女学校に入学した時の校長が成瀬仁蔵であり、浅子は成瀬の影響を受けて女子教育に尽力し共に創設した日本女子大学校に登美子が入学していますから、私もやはり浅子と登美子はなんらかの接点があったのではないかという気がします。
 「あさが来た」のこの後の展開も楽しみですね。

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