石田三成の実像1803 下高大輔氏による佐和山城跡の現地見学会3 モチノキ谷の三成屋敷

 
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  写真は三成屋敷があったとされる佐和山のモチノキ谷を撮ったものです。11日に行なわれた下高大輔氏の案内・説明による佐和山城下町跡、佐和山城跡、石田三成屋敷跡などをめぐる現地見学会の最後に訪ねたところです。
 見学会は佐和山山頂から再び西の丸を通って下り、途中から龍潭寺の方に降り、佐和山の西側に下りました。嶋左近の屋敷があったとされる清凉寺の前を通って、西側の山裾に添って南の方向に向かって歩きました。三成の茶室があったとされる仙琳寺の裏側の竹林を経由しましたが、この竹林の竹を伐採して、彦根キャンドルナイトの時に使っていました。切った竹の中に、キャンドルを入れてともしますが、宗安寺をはじめとするキャンドルナイトの様子については、何度か拙ブログ記事で取り上げています。
 さらに南に進んで、最後に上述のモチノキ谷にたどり着きました(竹林に行く途中に石田三成屋敷跡碑が建っていますが、偽りの碑だと説明されていました)。ここで下高氏による最後の説明を受けましたが、三成の屋敷が佐和山の大手側(東側)ではなく、裏手にあった理由として、近くに米蔵があり、それを管理する必要性があったからだと指摘されていました。米蔵は領地の米だけではなく、蔵入地(豊臣家の直轄地)の米も貯蔵しており、三成は正式に佐和山城主になる前に、代官としてこの地の蔵入地の管理も任されていました。三成が正式に佐和山城主になったのは、文禄4年(1595)7月のことですが、それより4年前の天正19年(1591)4月に、蔵入地の代官になったとされています。
 佐和山の大手は、三成の時代にそれまでの東麓から西麓に付け替えられたという中井均氏や用田政晴氏の見解がありますが、大手はずっと東麓にあったというのが下高氏の見解です。
 井伊家が江戸時代に行なった聞き取り調査をまとめた「古城御山往昔聞書集」の中にある「モチノキ谷」の記載が、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)で紹介されています。
 すなわち、「本丸南の方をモチノキ谷という。この下には治部殿の屋敷があって、今、作人らは、御殿畑と呼んでいる。もちの木は、石田家の時、書院前に植えられていたが、20年ほど前(1700年前後か?)に枯れてしまった」と。
 モチノキ谷から山頂にかけてスロープがあり、石垣として使われた湖東流紋岩を運んだのではないかと推定されていました。湖東流紋岩は、佐和山には存在しない岩です。
 また佐和山の西麓は、当時は松原内湖が迫っていたことも説明されていました。今回は廻りませんでしたが、松原内湖に当時かかっていた百閒橋の碑が、清凉寺の西側(JRの線路を挟んで)に建っています。
   

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