三成の実像1860 中野氏「石田三成伝」17 九州攻めの際の役割7 バテレン追放令 山本博文氏の見解

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、「秀吉は6月19日付でいわゆる『伴天連(バテレン)追放令』の発令を行なうが、これへの三成の直接的関与についても詳らかではない」と指摘されています。
 「バテレン追放令」については、山本博文氏の「天下人の一級史料」(柏書房)の「バテレン追放令」で詳しく論じられており、拙ブログでも以前取り上げたことがあります。
 その中で、三成が関与したことを示すものとして、筑前の箱崎宮の座主が書いた「豊前覚書」の中に、「この御朱印状は、生駒親正殿と石田三成殿が御承りになって、博多中と箱崎に、このような御朱印状が出たと座主坊から回覧するようにと、その二人の方が仰せ渡された」という記述があることが挙げられています。
 この史料については、「現在伝えられているのは、元和元(1615)年の写本ですから、当事者の手になる覚書として信頼がおける史料」と述べられています。中野氏がこの史料を「信頼がおける」ものとして考えておられるかどうかはわかりませんが、この史料が信頼できるものとして、「バテレン追放令」が出された時点で、三成も箱崎にいたとするなら、「バテレン追放令」を出すのに関わっていた可能性は高いように思われます。もっとも、三成が「バテレン追放令」をよしとしていたかとなると話は別です。キリシタンの小西行長との関係、後の「二十六聖人の殉教」の際、三成が犠牲者の数をなるべく少なくしようと尽力していたことなどから、内心、問題に感じていたのではないでしょうか。
 「バテレン追放令」の原本が残っていないことも、山本氏の同書には記されていますが、「原本は、キリシタン国の者に渡されるべきものですから、日本国内に原本が残されていないのは当然のこと」だと指摘されています。さらに「バテレン追放令に関して書かれた記録は、イエズス会宣教師の記録と箱崎宮座主の記録、さらに長崎の地誌類という系統の違う外国と日本の史料に残されているのですから、ほぼ信頼すべき記述だと思います」とも指摘されています。
 「バテレン追放令」が出された経緯についても、山本氏の同書に記されています。典拠は1588(天正16)年2月20日付のイエズス会総長に宛てたルイス・フロイスの書簡です。
 「バテレン追放令」が出される前日に、「ある異教徒」(施薬院全宗)が、「秀吉に、キリシタンになった大名たちが、領地の神社仏閣を破壊していることを告げ」たため、秀吉は突然怒り出します。高山「右近は、この日の内に、キリシタンをやめるか領国を追放されるか、どちらかを選ぶよう迫られ、『喜んで追放を受け入れ、領地を返す』と回答し」たため、秀吉は「ただちに右近から領地を取り上げ」、さらに宣教師のコエリュに詰問し、コエリュは回答しますが、秀吉は翌日「バテレン追放令」を出すことになります。
 

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