石田三成の実像1920 「海北友松」展4 「歴代年譜景勝公」 秀吉が友松の絵を下賜

「海北友松」展の第二章「交流の軌跡」に、「歴代年譜景勝公」が展示されていましたが、図録の解説によれば、「文禄3年(1594)10月28日、景勝が秀吉を聚楽城下の自邸に招待したときの様子を克明に伝えた」ところが示されていました。
 図録には、それに続けて次のように記されています。
 「10月3日、増田長盛や石田三成を通じて秀吉の御成を取り付け、翌日には大坂で秀吉に謝辞を述べたことが同3日の記事がわかる。御成の当日は、唐絵の掛幅や池坊による立花三瓶などで飾り立てた座敷に秀吉を迎え、膨大な数量の品々を献上した。また、秀吉からも藤四郎吉光作の刀や脇差、小袖なとが下賜されているが、その中に『御屏風一双 濃彩松鳥画 海北友松』とあることは注目されよう」と。
 三成は長盛と共に上杉家の取次でしたから、秀吉の御成を取り持つ役割も果たしたことがわかります。また景勝への下賜品などについても、三成が関与していたはずですし、そうなら、この時点で、三成は友松の作品が超一級品であったことを知っていたことになりますし、すでに親交を深めていたのかもしれません。このあたりは、今後の研究課題でしょう。
 これに関連して、中野等の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、同年10月9日付の景勝に充てた三成・長盛連署状が取り上げられていますが、次のような内容です。
 「太閤様が御上洛されるので、明日(伏見城)惣構の掘割の際でご対面されることとしておりました。ところが御上洛が明日に延びましたので、ご対面は明後日となります」と。
 この書状について、中野氏の同書では、次のように解説されています。
 「ここから、伏見へ戻る日程から当初の予定が1日ずれたことがわかる。この年、越後上杉家は伏見城惣構の普請を命じられており、秀吉はここで景勝を呼び出し、工事の出来栄えを親しく検分するつもりだったのであろう。伏見に戻った秀吉は、10月20日に徳川家康らを従えて聚楽の秀次を訪問し、ついで25日に蒲生氏郷の京屋敷、28日には上杉景勝の京屋敷を訪れている。誠にもって慌ただしい秀吉であるが、書状発給の様子などから判断すると、三成もおそらく秀吉の一連の動きに同行していたものと考えられよう」などと。
 三成も秀吉同様、多忙を極めたことがうがかえますが、伏見城惣構の工事と並行して、佐竹領検地もこの10月から行われます(7月にはすでに島津領が始まっています)が、三成はいずれの検地も家臣を派遣し、任務に当たらせています。従来、三成自身が島津領や佐竹領に下向していたと捉えられてきましたが、中野氏の研究によって、三成自身は上方にいたことが確かめられました。
 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック