美術探訪3 「海北友松」展5 「飛躍の第一歩ー建仁寺の塔頭に描くー」 60歳過ぎて頭角

 「海北友松」展の「第三章 飛躍の第一歩ー建仁寺の塔頭に描くー」では、建仁寺の塔頭である大中院、霊洞院、禅居庵に描かれた絵が展示されていましたが、友松と建仁寺との関係について、図録には次のように記されています。
 「60歳を過ぎた文禄・慶長の初め頃から、友松は頭角を現わし始める。その活躍の舞台となったのが、祇園にほど近い名刹、建仁寺であった。
 当時、建仁寺には友松の支援者であった細川幽斎の甥にあたる英甫永雄(えいほようゆう)がおり、入寺した天正14(1586)から示寂する慶長7年(1602)まで何と19回も住持を務めたことが知られる。そうした幽斎と英甫の繋がりによって、友松は建仁寺に出入りする機会を与えられたのであろう」と。
 「頭角を現わし」のが「60歳を過ぎた」頃からだというのは驚きですが、狩野派が牛耳っていた時代ですから、友松は狩野派に学んだものの、独自の画法を確立していきましたから、なかなか受け入れなかったということも、影響していたのかもしれません。
 その中に、霊洞院の「琴棋書画図屏風」というものが展示されていましたが、同じ主題のものとして、第二章の会場には、永徳の「琴棋書画図襖」がありました。この両者を比べると、画風が確かに違います。霊洞院の図屏風についての図録の解説には、永徳のものとの違いについて、「本図はいかにも友松らしい画風の真体画で、余白を活かした図様構成をはじめ、没骨を多用した岩や崖、石橋やの処理、さらに衣を少し膨らませた人物の描写などにもその特徴がよくあらわれている」と記されています。
 「琴棋書画」は、中国の文人が古来より嗜んできたもので、同じ主題で友松は建仁寺大方丈の「琴棋書画図」も描いており、それは次の第四章の会場に展示されていました。これは十面にわたる障壁画であり、図録には次のように解説されています。
 「六面は『書』『琴』をあらわすもので、二株の松の下、石屏を背にして坐す二高士が童子の読書に耳を傾ける場面と、童子が琴を担いで彼らに歩み寄る場面が捉えられている。また左に続く画面には、水亭でくつろぐ二高士の傍らに置かれた囲碁盤によって『棋』が、汀に立つ高士に従う童子が抱える画軸によって『画』があらわされている」「樹法においても、また人物の面貌描写においても、はるかに明瞭な友松様式が披瀝されているといえよう」と。
 「琴棋書画図」でユニークなものは、妙心寺のもので、講演会「海北友松の絵画を解析する」で取り上げられていましたが、第七章の会場に展示されており、その絵については改めて述べます。  

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