石田三成の実像1921 美術探訪4 「海北友松展」6 「建仁寺大方丈障壁画」1 恵瓊の功績

「海北友松展」の「第四章 友松の晴れ舞台ー建仁寺大方丈障壁画」には、建仁寺大方丈に描かれた「雲龍図」「花鳥図」「竹林七賢図」などが展示されていました。
 方丈の復興の経緯については、図録に次のように記されています。
 「天文21年(1552)建仁寺の方丈は兵火によって灰燼に帰したが、それが再興されたのは慶長4年(1599)のことであった。東福寺の瑶甫恵瓊【ようほえけい】(安国寺恵瓊)の尽力によって安芸・安国寺の建物が移築され、寺の『顔』ともいうべき方丈がおよそ半世紀ぶりに姿を現したのである」と。
 友松が「この画事に抜擢されたのは、雲洞院や禅居庵など諸塔頭の障壁画制作を行った実績が高く評価されたことによるものであろう」とも図録には解説されています。 
 むろん、友松と安国寺恵瓊の親交の深さもあったからだと思われますが、二人の交流はいつごろからあったのか、このあたりはよくわかりません。二人の交流を示す直接的な史料は今のところ、見つかっていないのではないでしょうか。
 建仁寺の方丈が再興されたのは、慶長4年7月のことだと、河合正治氏の「安国寺恵瓊」(吉川弘文館)に記されています。この頃は、三成は七将による襲撃事件の責任を取らされ、佐和山に隠居していました。 
 また河合氏の同書には、方丈の再興に関して、次のようなことも記されています。
 「建仁寺の第291世の住持梅仙東逋(ばいせんとうほ)はこの再建を喜んで、(中略)恵瓊を東福寺の開山円爾弁円(えんにべいねん)の再生だとほめたたえている。これによっても当時建仁寺の人々が、どれほど恵瓊に感謝していたかを察することができる」「今日に至るまで建仁寺で、恵瓊の命日にあたる10月1日には歴代住持と同様な供膳をもうけて、瑶甫(恵瓊)忌がとり行われている」と。
 10月1日とはむろん、関ヶ原の戦いを引き起こした張本人として、三成・小西行長と共に処刑された日です。 
  恵瓊が、建仁寺の方丈を再興した時、東福寺の住持であり、住持についたのは、慶長3年10月のことでした。
友松が描いたのは「方丈内の5室に52面(現在は50面)もの水墨障壁画」であり、「いずれも友松様式の完成を物語るものであって、狩野派とも長谷川派とも異なる、まさに友松独特の世界が披露されている」と図録の解説に記されています。
 「雲龍図」は二頭の巨大な龍の圧倒的な迫力で描かれていますが、講演会「海北友松の絵画を解析する」では、特に時間を取って、龍のそれぞれの部分がどの動物を模したものか説明されていました。その話を思い出しながら、じっくり絵を味わいました。

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