三成の実像1948 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」23

 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月~同年12月)がまとめられていますが、各日記の8月1日条には、伏見城落城のことが記されており、その続きです。
 「言経卿記」には、「伏見城が落城した。寄手勢3000人程が負傷した。(伏見城は)すべて焼けた。(こうしたことは)言語道断であり、説明できない、ということである」と記されています。
 この記載についての、白峰氏の解説は次の通りです。
 「伏見城攻めにおいて、寄手の軍勢のうち負傷者だけで3000人程という点に注意したい」と。
 この日記の記載が正しいとすると、奉行衆・毛利方の豊臣公儀側にかなりの犠牲者が出たこと、城側の抵抗がかなり激しかったことがわかります。
 豊臣公儀側の伏見城攻めの軍勢の数について、桐野作人氏の「関ヶ原 島津退き口」(学研新書)に、「おそらく5万を超えただろう」と記されています。桐野氏の同書には、「時慶記」の7月22日条の記述が取り上げられています。すなわち、「時慶は途中、小早川秀秋・大谷吉継・宇喜多秀家・毛利家(秀元か)の軍勢とすれ違っている」と。この記載は白峰氏の「時系列データベース」にも取り上げられており、拙ブログ記事でも紹介しました。
 この後、宇喜多秀家・毛利秀元は伊勢方面に、大谷吉継は北国方面に、島津義弘、三成は美濃方面にそれぞれ出陣しますが、小早川秀秋は近江の石部や高宮に留まったまま動きを見せませんでした。
 一方、伏見城に籠っていた軍勢の数について、桐野氏の同書には、次のように記されています。
 「伏見城には、留守居の城将鳥居元忠はじめ松平家忠・同近正・内藤家長・同元長など八頭(八人の大将)率いる1800余人が籠城していた。これに大坂城西の丸の家康御座所を守っていて毛利秀元に追い出された佐野綱正など5、600人も伏見城に入っていた(『浅野家文書』113号)。ほかに家康の賄【まかない】領(上方滞在の費用に充てる領地)があった近江国甲賀郡の土豪たちも入城したという」と。
 8月10日付真田昌幸・信繁宛三成書状の中で、伏見城を陥落させたことも述べられていますが、籠城していた人数について次のような記載があります。
 「臥(伏)見の城、家康留守居鳥居彦右衛門(元忠)をはじめ、七頭か千八百余り残し置き候」などと。
 実際、どれぐらいの人数が当時、伏見城にいたのかは定かではありませんが、攻め手側が何倍もの軍勢だったことは確かです。

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