石田三成の実像2088 三成祭5 下高大輔氏講演「豊臣政権が完成させた佐和山城」4 彦根城との比較

 5日に石田会館で行われた、下高大輔氏の講演会「豊臣政権が完成させた佐和山城」では、彦根城における佐和山城の面影についても触れられ、佐和山の石垣が彦根城の鐘の丸西面石垣に、佐和山城の瓦は彦根城の太鼓丸出土瓦に使われていると述べられていましたが、配布資料に、使われている場所や出土状況の写真が掲載されていました。両城の曲輪の名称や配置に共通するところが多いが、決定的に違うのは、大手道の向きであり、佐和山城の大手が東国を向いているのに対して彦根城の大手が大坂の方を向いていると述べられていました。
 こういうことから、彦根城築城について、下高氏は次のような見解を示されていました。
 「関ヶ原合戦で勝利した徳川家康の強い意志が反映される一方で、これまでの豊臣政権を否定しきれない部分を示していると考えられる」
 「長らく関ヶ原の合戦を説明する上で語られてきた『豊臣』対『徳川』という構図ではなく、あくまで『豊臣宗家諸大夫成大名家』対『清華成大名家』の豊臣政権内での主導権争いであり、合戦に勝利したとはいえ、徳川家康は豊臣政権下の大名家であったことを新旧両城の部材の移動や平面構造の近似性は示していると考える」と。
 さらに「勝者の歴史(徳川史観)と敗者の歴史(豊臣史観)からの解放」が必要だと結論付けられていました。
 こういう見解は、下高氏の研究ノート「井伊家居城の佐和山城と彦根城が示す豊臣政権」(『織豊期研究』第19号 2017. 10)でも示されています。
 この研究ノートでも、講演会と同様、佐和山城から彦根城への石垣・瓦の移動、佐和山城と彦根城の比較などについて詳細に論じられています。
 確かにそういう面もあり、井伊家は佐和山拝領をありがたがっていたのは事実であり、下高氏も述べておられたように、彦根城築城を「佐和山御普請」と言っていることでもそれはわかります。しかし、佐和山城を廃城にしてしまってからは、江戸時代の長きにわたって、入山禁止にしていたのは、三成の痕跡を消すためであったでしょうし、それは生まれ故郷でも、村人は正月に三成とは関係がないと誓わされたり、石田一族の壊された墓石を地下に埋めざるをえなかったりして、迫害を受けてきました。
 井伊家の意識としては、新たな佐和山城を作るという意識があったのかもしれませんが、彦根城が豊臣家ににらみをきかす城であったのは事実であり、彦根城が築城された時には、家康は将軍になって幕府を開いていましたから、豊臣家の大名という意識は少なくなっていたのではないでしょうか。佐和山普請ということで、豊臣方を安心させるカモフラージュであったかもしれません。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

2017年11月11日 21:14
お久しぶりです。
私も今回初めて三成祭へ行ってきました。
天気が良くて何よりでした。
徳明寺にも行って関連資料を見たり、屋台でうどんを食べたり講演会を聞いたり、実のある一日となりました。
佐和山城と彦根城の連動性や、井伊の城としての佐和山城という見方は、自分にとって新鮮でした。
今大河ドラマで、井伊直政が徳川に仕えて奮闘していますが、ほとんど創作でしょうし、三成が秀吉に仕え始めたあたりもはっきり分かってるわけではないですが、見ていて三成とかぶって見えたりします。やはり三成も、最初こんな風に奮闘していたのだろうな、と。
井伊直政と三成は、相違点も多いですが、生まれた年も亡くなった年も近いですし、主家のために人生を尽くした点では同じであったのだなと思ったりしました。
佐和山城に関する調査が進んでいくといいですね。
2017年11月12日 21:44
杏奈さん、コメントありがとうございます。
三成祭へ行かれたのですね。私も当日は同じような行動を取っていたので、場を共有していたことになりますね。
井伊直政と三成の共通点については確かにそうであったと思いますし、お互い若い時はいろいろ苦労したでしょうね。
佐和山城跡が早く国の指定史跡になってほしいですね。本格的な調査がされることも願っています。いろいろな謎の解明のためにも。
今後ともよろしくお願いします。  

この記事へのトラックバック