石田三成の実像2120 郡山城天守は豊臣期に築造・今の追手門は伏見城から・秀長の斡旋で三成婚姻

 
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7日に郡山城跡を1時間ほど散策してきましたが、その時のことはフェイスブックに写真入りで記していますので、興味のある方は、そちらの方をご覧ください。
 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7

 数年前に行った時には、天守台は工事中でしたが、今回は上に登ることができました(写真は天守台を南西方向から撮ったものです)し、見晴らしの良い眺めを楽しめました。天守は豊臣時代に作られたことが発掘調査で確かめられましたが、そのことについて次のようなことが、説明掲示板に書かれていました。
 「郡山城の天守については、絵図や文献がほとんど残っていないため、実在していたかも含めて諸説紛々となっていました。平成26年の発掘調査で礎石を発見。『幻の天守』は、ようやくその実在が確認されたのです。
礎石には1m前後の自然石を用います。礎石が取り外された部分には礎石を支えた根石【ねいし】がみられ、石があった位置がわかります。礎石は列状に並べられていますが、その上には土台となる木材が横方向に置かれ、その上に柱が立てられたのです。礎石や根石の中には、石仏や石塔を転用したものもみられます。
 礎石を覆う土からは、豊臣大坂城金箔瓦と同じ笵【はん】(文様の型)を用いた軒丸瓦や聚楽第に類例のある文様の軒平瓦などが出土しました。これらの瓦から、天守礎石の年代は豊臣政権期と考えられます。この天守は関ヶ原の戦い後に解体、以後、郡山城では天守は再建されなかったようです」と。
 郡山城は最初、筒井順慶が城主になりましたが、天正13年(1585)に豊臣秀吉の弟の秀長が城主となり、百万石を領しました。秀長は天正19年に亡くなり、その後を養子の秀保が継ぎましたが、秀保も亡くなり、秀長の家は断絶します。その後、五奉行(もっとも、五奉行制が確立するのは秀吉晩年のことですが)の一人である増田長盛が文禄4年(1595)、郡山城主になります。
 この時期、同じ五奉行の一人三成は正式に佐和山城主に任じられています。
 恐らく、秀長時代に天守が作られたのでしょう。秀長と三成の関係ですが、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、三成が宇多頼忠(当時は尾藤姓)の娘と婚姻したのは、秀長の斡旋によってであり、その時期は天正6~7年頃と推定されています。
 郡山城は関ヶ原の戦いの後、取り壊されますが、建物のすべては伏見城に移されたこと、松平忠明が元和4年(1618)城主になった時、城には十分な建物がなかったため、諸門が伏見城から再び郡山城に移されたこと、追手門もその一つであったことが、追手門のそばの掲示板に書かれています。伏見城の廃城が決まり、城割が始まったのは元和6年のことですから、その時期に郡山城に門が移築されたされたと思われます。
  

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