三成の実像2123 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」96

 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月~同年12月)がまとめられていますが、「舜旧記」の11月21日条には、「北政所が豊国社へ参詣」という記載があります。
 秀忠と忠吉が豊国社に参詣した時に、北政所が同行しなかったのは、彼らを避けたのでしょうか。北政所と秀忠の関係は悪くなく、北政所は秀忠をわが子のようにかわいがっていましたが、それは関ヶ原の戦いまでであったのではないかと考えています。大津城開城交渉に、北政所は使者を派遣していますし、関ヶ原の戦いでの三成方の敗戦を知って、北政所は御所の勧修寺晴子のところに逃げ込んでいますし、三成の娘の辰姫を自分の養女にしていますから、北政所は家康寄りであったとする通説は間違いで、逆に毛利・三成ら豊臣公儀方寄りであったと思っています。北政所は三成の挙兵を支持していたという白川亨氏の先行研究もあります。家康は戦後、豊臣政権の大老に返り咲いていますが、北政所はそのことを快く思っていなかったのではないでしょうか。
 白川氏の「石田三成とその一族」(新人物往来社)の中で、北政所は浅野長政、加藤清正、福島正則と仲が良く、関ヶ原の戦いの際、家康に味方するよう命じたとする通説に対して、否定的見解が示されています。
 その根拠として、彼ら3将は慶長4年4月18日に行われた豊国社の正遷宮祭に、浅野ら3将は参詣していず(三成は奉行職を解かれて佐和山に隠居していました)、その後もなかなか参詣せず、福島正則は慶長8年1月2日、加藤清正は慶長7年10月6日に初めて参詣していることが挙げられています。北政所と彼らとの関係が修復したのは、高台寺の建立計画が始まった慶長10年以降だと指摘されています。
 「北野社家日記」の11月22日条には、次のような記載があります。
 「北野天満宮の祠官・松梅院が前田玄以のところへ見舞いに行き、蜜柑一折を持参した」と。
 北野天満宮も他の寺社や公家と同様、前田玄以に気を使っていることがわかります。
 同日記の12月24日条には、次のような記載があります。
 「今夜、毛利輝元より毎月の祈念料9貫文が来る(北野天満宮)」と。
 輝元と北野天満宮との関係はなお続いていることがわかります。前述したように、輝元は剃髪したものの、毛利家の実権は保ったままでした。慶長12年(1607)、豊臣秀頼が北野天満宮の本殿を再建していますから、豊臣家と北野天満宮との関係も良好でした。

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