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zoom RSS 三成の実像2332「シリーズ石田三成」22 谷徹也氏「総論」22 光成準治氏「日用停止令と豊臣政権」

<<   作成日時 : 2018/07/15 00:04   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、  「豊臣政権における石田三成」の中で、奉行制の発展過程について論じられていますが、その続きです。
 日用取の停止を命令した増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以連署状について、光成準治氏は文禄5年の発給としているものの、谷氏は慶長2年のものだと指摘されています。光成氏の見解は、「日用停止令と豊臣政権」(山本博文氏ら編『豊臣政権の正体』【柏書房】)に記されていますが、その根拠として「玄以が『民部卿法印』と『徳善院』の呼称を併用していた」ことが挙げられているものの、谷氏は「その指摘は正しくな」いと断じています。
 もっとも、光成氏の同書では、他の根拠も挙げられています。三成の居所について、「慶長2年の1月中旬から2月中旬の間、石田三成は京・伏見に居なかった蓋然性が高い」と。
 しかし、この点については、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成
』【思文閣出版】所載)の中で、次のように記されています。
 慶長2年「1月24日秀吉京屋敷造営のために入京している(『言経』)が、基本的には伏見にあったものか。旧冬壱岐への着陣を報せてきた相良頼房(長毎)に2月2日付の返書を発し、『此方珍敷事も無之候』と報じている(『相良』)」と。
 「シリーズ 石田三成」の付録の谷氏編の「石田三成発給文書目録稿」にも、慶長2年2月2日付の書状は掲載されていますし、1月11日付の長束正家・増田長盛・石田三成・前田玄以連署状も載っています。
 こういうことからすると、三成は慶長2年2月15日には上方にいて、やはり連署状に名を連ねていたものと思われます。
 光成氏の同書では、他の根拠も挙げられていますが、慶長2年の連署状だという可能性が高いので、それについては省略します。
 さて、「日用停止令」とは、光成氏の同書では、「日雇い禁止に関する法令」であり、「農民が耕地を捨てて商人や日雇いになったりすることを禁止した」身分統制令の一つだと記されています。
 光成氏の同書では、2月15日付の堀尾吉晴宛の増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以連署状である「日用停止令」の原文の写真、釈文、現代語訳が記されています。現代語訳については改めて取り上げますが、「日用停止令」についてはもう1通、同年同月同日付の上坂八右衛門尉宛のものがあり、八右衛門尉は「秀次、あるいは秀長の歿後に跡を継いだ秀保の家臣であった」が、彼らの歿後、「秀吉直属家臣にされた」人物だと指摘されています。
  

 

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