関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2334 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」24 谷徹也氏「総論」24 慶長2年の御掟

<<   作成日時 : 2018/07/17 18:06   >>

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 フェイスブックの方でも記しました(https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7)が、加藤剛さんが亡くなられました。加藤さんと云えば、何と言っても、1981年正月にTBSで3日連続で放送された「関ヶ原」の石田三成役です。義を掲げ実直なまでに豊臣家を守ろうとする役柄を好演していました。岡田准一さん主演の映画「関ヶ原」はそのリメイク版です。もっとも、内容はいろいろアレンジされていましたが。
 演劇では大阪府立住吉高校に勤めていた時に見た「門ーわが愛」が忘れられませんし、加藤さんが全編朗読された漱石の小説「こころ」のテープは現代文の授業でよく使いました。読み方が絶妙で、「こころ」の世界に生徒もすっと入っていけると思ったからです。
 さて、谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「豊臣政権における石田三成」の中で、奉行制の発展過程について論じられていますが、その続きです。
 慶長2年3月7日に、辻切などに関する「御掟」なる、長束正家・増田長盛・石田三成・宮部継潤・前田玄以連署状について、次のような見解が、谷氏の同書で記されています。
 「『毛利家文書』の端裏書に『京都御法度書』とあることから対象を京都とする説と、大名の居所から伏見とする見解が存在する。この時点では、九州・四国などの諸大名が朝鮮への再派兵に命じられた以外は、三条屋敷(京都新城の前身)と木幡山伏見城(伏見山城)の普請に従事していたため、都市は限定せず、在上方の大名や武士に向けて出されたと考えるのが妥当ではないだろうか」と。
 前者の説は藤井讓治氏の見解であり、後者の説は、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で記されているものです。中野氏の同書には、この連署状について、次のように指摘されています。
 「一連の指示は、辻切・摺(すり)・盗賊などの取り締まりのため、武家奉公人については五人組、それより下層の下人については十人組を組織して、相互監察を強めようとするものである」
 「2月に出された日用取を厳禁する指示や、3月の犯罪防止のための『五人組』『十人組』編成の指示は、伏見築城に関わって発令された可能性が高い。築城に伴って、多くの労働力が伏見やその周辺に殺到することになるが、彼らのなかにはいわゆる無頼の輩も含まれよう。こうした危惧を前提として、治安維持を徹底する目的から、三成ら奉行衆は、彼らの責任として、武家奉公人や下人など諸大名の管下にある者たちの編成を命じたのである」と。
 日用停止令と共に伏見築城に伴って出されたものだという見解が示されていますが、三条屋敷の普請も始まっていたという谷氏の指摘にはうなずけるものがあり、確かに都市は限定されていなかったのかもしれません。

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