関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2335「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」25 谷徹也氏「総論」25 奉行筆頭ではない

<<   作成日時 : 2018/07/18 18:38   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、  「豊臣政権における石田三成」の中で、奉行制の発展過程について論じられていますが、その続きです。
 奉行衆における三成の位置について、通説とは異なる見解が示されています。
 「訴訟や算用の事例を見る限り、奉行の中心にいたのは増田や長束であり、三成は算用に関しては慶長期に入るまで署判に加わっていない。そして、奉行における署判の順序も、官位を反映して玄以・浅野より低く、増田と同格の位置にあった。また、その居所を確認すれば、多くの検地や戦陣などに携わっており、常に秀吉の側近くにいたわけでもない。むろん、若くして奉行に登用されている点は異例の抜擢ともいえ、優秀さを買われたことは間違いない。しかしながら、近年の研究によれば、必ずしも三成ら奉行の思惑が秀吉の思惑と合致していたわけではなく、秀吉の御諚を誘導したり、それとは相反するような行動を取っていたこともしばしばあった。三成が秀吉家中において奉行の筆頭であり、その意図に常に忠実であったかのようなイメージは改める必要があるだろう」と。
 三成が秀吉の命令に必ずしも忠実ではなかったということは、谷氏の同書の「諸事件における三成」の項で論じられていましたし、拙ブログ記事でも取り上げました。
 三成が秀吉のもとを離れて全国各地を飛び回っていたことは、三成の居所をずっとたどっていけば、よくわかりますし、戦国武将の中で三成が生涯、一番移動の距離が多かったことは太田浩司氏も指摘されています。諸事件に三成が関与していたこともよく云われますが、三成の不在の時に事件が起こったことも少なくなく、三成の居所からの見直しも必要だと思われます。
 三成が奉行筆頭ではなかったということは、確かに今までも署判の順序から指摘されていましたが、七将による石田三成襲撃事件で、奉行のうちで三成だけが責任を取らされて佐和山に蟄居させられたことと云い、関ヶ原の戦いで主導的な役割を果たしたことと云い、実質的に筆頭としての役割を果たしていたのは間違いないのではないでしょうか。家康弾劾状である「内府ちかひの条々」は、増田・長束・前田の三奉行の名で出されていますが、その後の動きを見れば、増田・前田は結局大坂城を動きませんでしたし、長束も南宮山に陣したまま、戦いには加わりませんでしたから、家康に対して積極的ではありませんでした。このことをもってしても、三成の反家康に対する姿勢は中途半端なものではなく、もし三成が居なかったら反家康勢力を結集させるのは無理だったのではないかと思われます。むろん、二大老四奉行が豊臣公儀を標榜していましたから、各大名はそれに付き従ったのでしょうが、三成が牽引役になったと考えられます。 

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