関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2336「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」26谷徹也氏「総論」26 所領の変遷1

<<   作成日時 : 2018/07/19 16:12   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、  「領主・代官としての石田三成」の中で、時期ごとに分けて三成の所領と代官所(蔵入地)について、今までの議論も踏まえて論じられています。
 まず@「天正18年以前」について、「三成が天正11年から13年の間、近江国水口城で4万石を与えられた」とする渡辺世祐氏の見解、「渡辺説を踏襲しつつ、石高は1万5千石程度だったと推測」した今井林太郎氏の見解、「数千石程度であり、城代として水口城を預けられただけであったと」する小和田哲男氏の見解が取り上げられています。
 しかし、これらの見解については、次のような点で谷氏によって否定されています。
 すなわち、「そもそも水口を領有したとする話自体が後世の逸話などにしか確認できず、現在では、水口地域は天正13年の『甲賀ゆれ』によって甲賀衆が改易された後に豊臣政権の支配が及ぶようになり、水口城(水口岡山城)自体も同年に中村一氏によって築城されたと考えられるようになっている」と。
 この見解は、甲賀市教育委員会の「水口岡山城跡総合調査報告書」に基づくものですが、3月に開かれた「織豊期城郭研究会2018 特別研究集会 豊臣の城から見た佐和山城」の、甲賀市教育委員会の小谷徳彦氏の「東海道の拠点城郭 水口岡山城」の中でも同様の報告がされていました。
 またオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「近江・水口」の章でも、三成が水口城の城主であったという見解は否定されています。
 もっとも、三成が水口城4万石の城主であった時に、嶋左近を半分近くの石高で召し抱えたという逸話から、三成が城主でなかったしても水口付近になにがしかの所領を得ていたという可能性は高いのではないかと私は思っています。三成の父の正継の生母は、甲賀郡の多喜資盛からの拝領妻だと、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)に記されています。三成と甲賀や水口との関係は、今後検討すべき課題と思われます。
 また谷氏の同書には、三成の所領について、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)に記されている見解が紹介されています。
 すなわち、「小田原攻めに際して三成に課せられた軍役の規模から逆算して、天正15年から18年の間に畿内・近国で7・8万石程度の所領を得ていたと推測している」と。
 この時の三成に課せられた軍役の根拠は、「伊達家文書」の「陣立書」であり、その中に「軍勢1500(『千五百騎』とするものと『千五百人』とするものがある)」と記されています。

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