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zoom RSS 三成の実像2337 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」27 谷徹也氏「総論」27 所領の変遷2

<<   作成日時 : 2018/07/20 10:46   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「領主・代官としての石田三成」の中で、時期ごとに分けて三成の所領と代官所(蔵入地)について、今までの議論も踏まえて論じられていますが、その続きです。
 A「天正18・19年」の所領について、「天正19年4月に近江北部(犬上郡・坂田郡)と美濃国内で合計4万5千石の代官所を預けられた」とする渡辺世祐氏の見解、「天正18年7月の奥羽・関東・東海地域の所領替えに際して、三成が10万石ほどの石高で佐和山城の番城主となったと推測した」岩沢愿彦氏の見解が示されています。そしてその岩沢説を批判したのが伊藤真昭氏であり、そのことを論じた伊藤氏の「石田三成佐和山入城の時期について」が、「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」に掲載されていることも谷氏の同書に記されていますが、その見解について、次のように要約されています。
 すなわち、「佐和山入城は天正18年7月ではなく、19年4月と推測し、美濃で約10万石の大名(中心地は安八郡神戸か)となり、近江(佐和山城の城付蔵入地)と美濃で4万5千石の代官も兼ねていたと結論づけている」と。
 伊藤氏の見解は、今では広く受け入れられ、太田浩司氏の「近江の知将 石田三成」(サンライズ出版)やオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)などでも取り上げられていますし、3月に行われた「織豊期城郭研究会2018 豊臣の城からみた佐和山城」でも、佐和山城入城の時期は伊藤氏の見解に従い、天正19年だと説明されていました。
 まだ谷氏の同書では、「その後、文禄2年後半に佐和山の城付蔵入地が三成の領地として宛行われたと推測している」との中野等氏の見解も紹介されていますが、これは中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の記述に基づいています。もっとも、中野氏の同書では、正確には「朝鮮での論功行賞として文禄2年後半頃に宛行われた可能性が高いように感じるが、残念ながら確証となる史料は見出させていない」と記されています。
 文禄2年後半頃と云えば、三成が朝鮮半島から戻った時期であり、「論功行賞として」与えられたということは十分考えられます。三成は増田長盛・大谷吉継と共に、秀吉に代わって名護屋から朝鮮半島に向けて出発したのは、文禄元年(1592年)6月6日のことであり、三成が名護屋に帰還したのは翌年の9月23日のことです。蔵入地が領地として三成に与えられたことを示す史料が欲しいところです。
 
 
 

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