関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2339 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」29 谷徹也氏「総論」29 所領の変遷4

<<   作成日時 : 2018/07/22 11:30   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「領主・代官としての石田三成」の中で、時期ごとに分けて三成の所領と代官所(蔵入地)について、今までの議論も踏まえて論じられていますが、その続きです。
 C「慶長3年」の所領について、次のように記されています。
 「慶長3年4月、小早川秀秋の転封に伴い、三成は筑前・筑後北部の代官に就任する。秀吉は当初、三成にその地を所領として宛行おうとしたが、要衝の地の佐和山を任せる者がいないので沙汰止みとなった。三成には、秀次事件後にも尾張清須を与える計画があり、結果的にはいずれも佐和山を維持していることから、畿内に領国を保持しておきたいという三成の希望と働きかけを読み取ることも可能だろう。なお、代官支配は結局は三成単独ではなく、浅野長政と分割して行われ、同年8月に筑前五郡と筑後五郡の蔵入地代官となったと中野氏は推測している。慶長4年2月に秀秋の復領が認められ、三成の九州代官支配も終わっている」と。
 三成が小早川秀秋の旧領を辞退したことは、慶長3年5月22日付の、家臣の大音新介宛の三成書状に記されており、この書状は中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)で取り上げられ、詳しく論じられています。もっとも、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、この書状について、「この三成文書の充所を端裏の記述から『大音新介』とするが、現状では充所の確認ができない」と指摘されています。
 中野氏の同書で、三成が小早川秀秋の旧領の代官になったことを示すものとして、5月26日付の島津義弘・忠恒宛ての福原長堯・垣見一直・熊谷直盛連署状が挙げられ、その中に次のように記されています。
 「少し前に(秀吉は)筑後と筑前を三成(石治)に与えると仰ったのですが、三成が東国から戻って(三成に)言い聞かせるに、これらの国々を(三成に)扶助したいとお思いになったのですが、そうなると要(金目【かなめ】)と考える佐和山(沢山)に配すべき別の人物がおりません。(中略)三成(治少)の申し上げようは、そうした御下命を得ることは拝領したのも同然ですので、これまで通り近江にあって御奉公申したい、というものでした。そうことであれば、以前と変わらず佐和山(沢山)にあって、筑前・筑後の両国を御代官として支配するのがよいとご命令になりました」などと。
 後の関ヶ原の戦いのことを思えば、この時、三成が秀吉の申し出に応じ大幅加増されておれば、軍事動員数も格段に増え、戦況にも大きく影響したかもしれません。
 秀次事件後に三成に清須21万石が与えられる計画があったことは、7月20日付でまとめられた「今度御知行御取候かたかた事」という大名領の再配案に記されています(中野氏の同書)
 
 

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