関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2341 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」31 谷徹也氏「総論」31佐和山城と城下町

<<   作成日時 : 2018/07/24 10:45   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「領主・代官としての石田三成」の中で、佐和山城と城下町についても論じられています。
 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」に、谷口徹氏の「佐和山城の絵図」が掲載されていることがまず紹介されていますが、この論考については、拙ブログで改めて取り上げます。
 谷氏の同書で、次に次のようなことが記されています。
 「近年になって、遺構や石垣・瓦については『近江佐和山城・彦根城』に成果がまとめられ、発掘調査の報告書も刊行された。さらに、下高大輔氏はそれを基に本丸や堀・土塁の構造を考察して、八幡山城との類似性を指摘し、天正13年の堀尾吉晴入城段階で秀次の本城に対する支城として、佐和山城の縄張りの基礎が固まったと結論つけている」と。
 下高氏の見解は、拙ブログでたびたび取り上げましたし、3月に行われた「織豊期城郭研究会2018 特別研究集会 豊臣の城からみた佐和山城」の中でも、下高氏の報告がありました。
 「近江佐和山城・彦根城」の佐和山城の発掘調査の報告書を担当したのは、佐和山城研究会の田附清子氏や有吉圭氏によってでしたし、彼らによる佐和山城の石垣の発見などをもとにして、下高氏は佐和山城本丸周辺平面復元案を作成されています。
 佐和山城の大手が東側の鳥居本方面にあったのか、三成の時代に西側の松原内湖方面に付け替えられたのか
という対立する両者の見解、城下町や惣構についての研究者の見解も谷氏の同書に記されていますが、拙ブログで今までにたびたび取り上げてきたので、省略します。
 ただ、谷氏の同書では、「佐和山城と琵琶湖水運との関わりを示す史料としては、『江州諸浦れう舟・ひらた船之帳』と『さわ山御城付分ひらた舟之帳』」が挙げられています。これらの史料として、次のように解説されています。
 「前者は慶長6年6月に琵琶湖岸の船奉行・観音寺朝賢が作成し、近江国内の諸浦が所有する船と所有者を書き上げたもの(元和年間までの追記あり)で、後者もおそらく同時期に佐和山城領の分を別帳に仕立てたものと考えられる。そこでは、平太舟や漁舟、鵜遣舟などが登録されており、中には『小松村惣舟』や『惣綱舟』『惣川渡舟』など、村で共有された船の存在も確認できる」と。
 三成の時代に松原内湖側に大手が付け替えられたかどうかは別として、三成も水運を大いに利用し、それが関ヶ原の戦い後も続いていたことがわかります。

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