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zoom RSS 三成の実像2344「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」34 「総論」34 訴訟に積極的でない?

<<   作成日時 : 2018/07/27 10:19   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「三成の統治と家臣団」の中で、文禄5年3月1日付で三成が出した掟書について論じられていますが、それに関連して、「シリーズ・石田三成」の中で、本多博之氏の「豊臣政権下の博多と町衆」が掲載されていることが紹介され、それは「三成の筑前・筑後蔵入地における在地支配について述べたもの」で、その内容について次のように要約されています。
 「三成側が博多津内の年貢未納分を借米として処理したが、荒地が多く、年貢も過重であったために『百姓等もめいわくいたし、あまた津内ヲにけうせ候』と逃散してしまったことが指摘されている」と。
 この論考については拙ブログで改めて取り上げますが、この時の訴訟について谷氏の同書では、次のような点が指摘されています。
 「三成は自らの在京中に代官と百姓の間が出入が発生した場合の対応を、博多商人の嶋井宗室に委任していた。また、慶長3年6月に制定した九ヶ条の条々は、佐和山領に下した三成条々とも類似する法令であるが、その中で、百姓と庄屋・隣郷との間に相論が生じた場合でも、耕作に支障が出るため、7月15日以前には訴え出ず、15日を過ぎてから郡奉行に訴えるように命じている」
 「山中長俊から百姓の目安が届けられたが、手続通り筑前・筑後に設置した郡奉行に訴えるよう指示し、目安を返却している。よって、三成自身は必ずしも訴訟に積極的ではなかったといえよう」と。
 嶋井宗室は三成と親しかった人物であり、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の中には、朝鮮出兵の際、嶋井宗室と三成が反対したという記述が「博多記」にあることが記されています。
 山中長俊に宛てた、目安を返却する由の三成書状には、以前にも拙ブログで取り上げた、三成が「腹中気」のため臥せっていたことも述べられており、病気のことも関係していたかもしれませんが、それより「手続通り筑前・筑後に設置した郡奉行に訴える」のが原理原則だったという姿勢を取りたかったからということも考えられます。またこの時期、秀吉の死の直前直後のことであると思われ、中央政界はいろいろと対応に追われていたという事情もあったのかもしれません。そういうもろもろのことから見れば、「三成自身は必ずしも訴訟に積極的ではなかった」という谷氏の見解が正しいかどうかは、今後検討する必要があるのではないでしょうか。
 谷氏の同書では、「三成は、摂津国浜田村の百姓が代官の不正を訴えた際、収取に関する規定を下したうえで『向後非分之目安上候ニ付ては可為曲事者也』と、手続きを踏まえない越訴を抑制する姿勢を見せている」点も挙げられていますが、このことも、手続きを踏むという原理原則を貫いた三成の姿勢の表れと云えます。

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