関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2358 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」48 「総論」48 朝鮮出兵2

<<   作成日時 : 2018/08/10 00:28   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、朝鮮出兵の際の三成の事績についての続きです。
 「漢城で越年した三成は、翌文禄2年4月には漢城には釜山へと撤退を行い、明使節と偽った謝用梓らを伴って一時名護屋に戻ったが、翌月には釜山に渡海している。そして、周辺における要害(『倭城』)構築を行った後の同年9月に国内に帰還してからは渡海することはなかった」と。
 このことは中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で詳述されていますし、拙ブログでも取り上げました。
 さらに谷氏の同書には、「この間、名護屋にいた秀吉の認識と三成が直面していた朝鮮半島の実態は乖離した状況にあった」と指摘され、「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」に収録されている国重(佐島)顕子氏の「豊臣政権の情報伝達についてー文禄2年初頭の前線後退をめぐってー」で「三成らが前線後退を事後報告し、漢城からの撤退へと秀吉の意向を誘導していた」との見解が示されていると述べられています。国重氏の同論考については、改めて拙ブログで取り上げたいと思います。
 このことに関連して、「この時期の三成を、参謀として秀吉の面目を保ちながら戦争終結への道を模索していた」との太田浩司氏の見解、「慶長2年末段階では、三成自身は朝鮮半島の戦況を悲観的に見ていた」との中野氏の見解も取り上げられています。
 このうち、中野氏の見解については、同氏の「石田三成伝」の中で、慶長2年12月25日付の家臣宛ての毛利輝元書状写の記述と、カンハンの「看羊録」の記述が根拠として挙げられています。
 前者の書状については、以前にも拙ブログで取り上げたことがありますが、「三成は国替えを憂慮する輝元に対して、戦況を踏まえつつ当面その心配は不要であると述べている。(中略)三成はすでに朝鮮半島の戦況を悲観的にみており、九州大名の朝鮮転封はいうまでもなく、宇喜多家・毛利家の転封も、数年間はあり得ないことを告げた」と。
 後者の「看羊録」の記述についても、拙ブログで取り上げたことがありますが、「石田三成はつねづね『六六州で充分である。どうしてわざわざ、異国でせっぱつまった兵を用いなくてはならないのか』と言っていた」という内容です。
 谷氏の同書では、「秀吉の死後、三成は慶長3年10月から12月にかけて、朝鮮半島からの撤兵作業のために博多に下った」と記されていますが、秀吉の死によって朝鮮半島への侵略が終わったことについては複雑な思いを味わっていたに違いありません。

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