関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2359 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」49 「総論」49 五大老五奉行制の成立

<<   作成日時 : 2018/08/11 21:29   >>

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 今日は午前中、大原観音寺の薬師堂の落慶法要・式典があり、午後からは谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」が行われたので、参加してきました。谷氏のご尊顔を拝するのは初めてですが、新進気鋭の研究者で
今後の活躍が楽しみですし、これからの研究成果に大いに期待します。また観音寺の本坊には三成関連の本を250冊程集めた「三成ブックカフェ」がオープンしており、それも見てきました。谷氏の講演は、「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」に即した内容ですが、また改めて拙ブログで取り上げたいと思います。
 さて、谷氏の「総論 石田三成論」の「合戦における石田三成」の中で、秀吉の死に伴って「五大老」「五奉行」制が成立したと指摘されています。
 これに関連して、「筑前の蔵入地支配のため九州に下向していた三成が上京するのは7月中旬のことであ」り、「矢部氏は、秀吉の臨終直前に三成が上方に不在であったことを重視し、中野氏もそうした状況が更なる混乱を招きかねないため、急ぎ上京したと推測している」と述べられています。
 このうち、矢部健太郎氏の見解は「関ヶ原合戦と三成」(吉川弘文館)で示されていることですが、「慶長3年7月に『五奉行』が伏見城に参集できた日というのは、わずか数日しか想定できないことになってしま」い、「自身不在中における政治状勢の変化に、三成が何らかの焦りや不安を感じていたように思えてならない」と指摘されています。
 矢部氏の同書では、その根拠として、「秀吉の病の好転を伝えた」内容の7月15日付の島津義弘宛て前田玄以・浅野長政・増田長盛連署状が出されているのにかかわらず、わずか2日後の17日付で「同じ島津家に改めて三成を加えた4名で連署状を発給した理由は、やはり三成の帰洛に求められ」ること、8月28日付の増田長盛・石田三成・長束正家・前田玄以宛ての毛利輝元起請文について、7月15日付の「もともとの起請文前書の内容に三成が手を加え」、家康・利家・秀家・景勝・輝元の「五人之奉行」が「長盛・三成・玄以・正家の『四人衆』と心違いを起こさないよう求めた」ことが挙げられています。
 後者の起請文の書き加えの意味については、「三成は、政権運営の中心が自分たち『四人衆』=年寄衆であることを誓約文書に明記させ、自身不在時に存在感を高めた家康・利家ら『五人之奉行』(いわゆる『五大老』)を強く牽制した」と指摘されています。
 中野氏の見解は、同氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)に記されており、次のようなものです。
 「島津家の重臣伊集院幸侃(いじゅういんこうかん)の書状などを見ると、三成が筑前に下向して政務の中枢にいないことが、事態の不透明感をさらに助長しているようである。病床の秀吉を見舞い、さらに朝鮮半島での戦争を継続するか否かについての決断に参画すべく、三成は慌ただしく筑前を発つ」と。
  

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