関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2361 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」51 「総論」51 五大老五奉行制3

<<   作成日時 : 2018/08/13 10:43   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、「五大老」「五奉行」についての考察がされていますが、その続きです。
 谷氏の同書では、「五大老」の政務実態について次のように指摘されています。
 「『五大老』の主要な活動については、@朝鮮撤兵、A知行宛行、B海賊停止、C朝廷との交渉が挙げられる。彼らは初期の朝鮮撤兵においては寄り合って対処を行っていたものの、慶長4年正月10日に秀頼と共に前田利家が大坂へと下向して以降は、伏見と大坂に居所が分かれたため、そうした場を設ける機会はなくなった。おそらくは『五奉行』や西笑承兌らの仲介による意見の調整を経て、回送された文書に花押を据えて連署状を発給していたと思われる」と。
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における五大老・五奉行に関する記載についての考察」(別府大学史学研究会『史学論叢』第45日号所載)の中で、イエズス会側の史料の五大老に関する記述から、次のようにまとめられています。
 「五大老については、@家康が主君である秀頼の後見役になる。A家康は日本国全土の統治を任せられる、B家康のほかに『四名の重立った家老』(ここでは4名の具体的名前の記載はない)も就任する、Cこの5名は、国家を統治する権力においては同等であった(つまり、国家統治権について家康の権力だけを突出させることを秀吉は当初から意図していなかった)、D『国家全体の鍵』を掌握し、統治権を司っていた、ということがわかる」と。
 ただし、五大老と五奉行との関係については、白峰氏の同書で、次のように総括されています。
 「五大老を牽制する目的で秀吉が五奉行を任命したことからすると、五大老と五奉行は基本的に同格であり、五大老・五奉行の10名は同様の立場から国家全体の統治に関与した、と見なすことができよう。よって、五大老と五奉行を区別することなく、『これら十名の統治者たち』というように10名(五大老・五奉行)をひとくくりにして記載していると考えられる」と。
 ここからは、五大老の下に五奉行がいたという捉え方は正しくないことがわかります。
 谷氏の同書に記されている、五大老が「伏見と大坂に居所が分かれた」という点について、利家らは大坂へ行き、家康は伏見に残りましたから、家康が勝手に他の大名と婚姻を結んで秀吉の遺命に背いたことが問題になった時、家康を除く四大老と五奉行が連名で、家康を糾弾し、その後事態の収拾をはかるため利家が伏見まで家康を訪ねています。また、その後、利家が亡くなった直後に七将による石田三成襲撃事件が起こり、三成が奉行職を解かれ、隠居に追い込まれてからは、家康の独断場になり、大老たちを帰国させますし、大坂に乗り込んで政務に当たりますから、五大老・五奉行制を有名無実化したわけです。
 

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