関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2363 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」53 「総論」53 五大老五奉行制5

<<   作成日時 : 2018/08/15 10:54   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、「五大老」「五奉行」についての考察がされていますが、その続きです。
 谷氏の同書では、「五奉行」の政務実態について次のような内容の書状も挙げられています。
 「慶長3年8月に河原長右衛門に対して、西岡の藪竹を三分一伐採して中江直澄に渡すよう通達し、同年12月には暮松越後守に対して、宝生座の支配を例年通り行うよう指示したことが確認できる。また、同月には、信濃の本誓寺からの使者に対して、秀吉が『本復』したので上洛は無用であると伝えている」と。
 河原宛てのものは、8月20日付の五奉行連署状、暮松宛てのものは12月25日付の五奉行連署状、本誓寺宛てのものは、12月7日付の浅野長政を除いた四奉行連署状です。これらの書状も谷氏編の「石田三成発給文書目録稿」に掲載されています。本誓寺宛てのものについては、谷氏の同書で、次のように解説されています。
 「秀吉死去の公表は正式には慶長4年2月に行われたため、諸国に対してはこのような返答がなされたと思われるが、実際にはすぐに噂が広まっていた」と。
 秀吉死去の公表を遅らせたのは、朝鮮半島からの撤兵をスムーズに進ませるためですが、明・朝鮮側もそのことを知ることになったため、猛烈な攻撃をかけてきて、小西行長らはなかなか撤兵できませんでしたが、島津義弘などが応援に駆けつけてきたので、無事に帰還できました。
 本誓寺宛てのものは12月7日付になっていますが、この時三成は博多にいました。同日付で博多の神屋甚兵衛宛ての書状を発しています。三成が大坂に戻ってきたのは12月24日のことです。浅野長政以外の他の奉行衆は大坂にとどまっていましたから、12月7日付の連署状に三成が署名したのは、大坂に戻ってきてからだと推測されます。ですから、実際に発給されたのは、24日以降ではないでしょうか。浅野長政の署名がないのは、この時点でまだ大坂に戻っていなかったのかもしれません。長政も三成と同様に、朝鮮半島からの撤兵のためと旧小早川領の代官としての役目遂行のために、九州下向していました。
 もっとも、12月25日付の暮松宛てのものは、五奉行がそろって連署していますから、長政は25日には大坂に戻っていた可能性はあります。
 九州へ下向する際も、浅野長政と三成は微妙に時期がずれていたかもしれません。長政は10月14日に小倉に着いています(15日付杉原長房宛ての長政書状写)が、三成は10月19日には周防富田にいました(同日付神屋宗湛宛て三成書状)。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2363 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」53 「総論」53 五大老五奉行制5 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる