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zoom RSS 三成の実像2365 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」55 「総論」55 五奉行の城番制

<<   作成日時 : 2018/08/17 10:49   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、「五奉行」が、秀吉の遺言に従って城番を務めたことを示す史料としていくつか挙げられています。
 まず「慶長4年正月の発給と思われる三成書状では、三成と浅野長政・長束正家が寄合のために家康邸に参集している場に、宇喜多秀家も早く来るように催促しているが、増田長盛と玄以は『御城御用』で不参加となっている」と。
 この書状は、谷氏編の「石田三成発給文書目録稿」に掲載されていますが、秀家宛てのもので、「(慶長4・正ヵ)7」と記されています。
 1月10日には、秀頼は大坂城に移っており、三成らも大坂城に行っていますが、家康は伏見城を任されているため伏見にとどまっています。そのあたりのことを、家康と相談、あるいは申し渡すため家康の屋敷に集まったのではないでしょうか。しかし、長盛と玄以は城番のためこの集まりに参加できなかったわけです。この秀頼の大坂城入りは、家康の動きを牽制するためであり、前田利家や奉行衆の意向だったと思われます。
 しかし、この後、家康が秀吉の遺言に背いて他の大名との婚姻を結ぼうとしていることが明らかになったため、四大老・五奉行の糾弾を受けることになります。それが1月19日のことです。
 この問題は、2月2日に収まったという記述が、「義演准后日記」にあることが、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)で指摘されています。 
 また谷氏の同書には、「同年2月12日には三成が大坂城の『御門矢倉』で御番を勤めたとされ、翌月29日には浅野が大坂城の秀頼に祗候しているのが確認できる」と記されています。
 2月12日に三成が大坂城で御番を勤めたとされる典拠が、「神屋宗湛茶会日記」であることが、谷氏の同書の【註】に記されていますが、「宗湛日記」の記述は「注意を要する」とも書かれており、本当に12日に三成が御番を勤めたのかどうかは、今後の検証が必要だと思われます。3月29日に浅野が秀頼に祗候したとする典拠は、同日付の浅野長政書状であることが、やはり【註】に記されており、この方は信憑性が高いと思われます。
 この後、前田利家が亡くなり、直後に7将による石田三成襲撃事件が起こり、その責任を取らされた三成は奉行職を解かれて佐和山に隠居します。
 その後の城番について、谷氏の同書には、次のようなことが記されています。
 「6月20日には石田正澄が大坂城の御番を行っており、三成失脚後には正澄が代理を務めたのかもしれない」と。この典拠は「鹿苑日録」の同日条であり、これも信憑性は高いものと思われます。三成失脚後も、石田家は一定の地位は確保していたことを示すものでしょう。

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