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zoom RSS 三成の実像2366 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」56 「総論」56 五奉行の城番制2

<<   作成日時 : 2018/08/18 11:18   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、「五奉行」が、秀吉の遺言に従って城番を務めたことを示す史料としていくつか挙げられていますが、その続きです。
 谷氏の同書では、慶長4年「22日には、玄以が大坂城の『大門之御番』にあたっており、翌月も大坂に留まった。7月には増田が大坂城の『ヤグラノ御番所』に詰めており、9月には玄以が同城『極楽橋之矢倉』で訴訟対応を行い、増田も同所で御番した」。
 これらの典拠は大半が「鹿苑日録」ですが、「義演准后日記」の7月3日条にも記載があることが、谷氏の同書の【註】に示されています。
 谷氏の同書では、「これらから、『五奉行』は交代で大坂に下向して秀頼御前や矢倉で御番を勤めていたことがわかる。城番の隙を縫う形で『五奉行』は寄合を催し、奉行総体での政務にあたっていたのであろう」と指摘されています。
 城番も勤めなければいけない「五奉行」の激務ぶりがうかがえます。谷氏の見解のように、失脚した三成の代わりを兄の正澄が務めていたとすれば、三成失脚後も、「五奉行」制が維持されたことになりますが、城番など一部の業務にとどまったのかもしれませんし、慶長4年閏9月に起こった家康暗殺事件の後、浅野長政は蟄居しますから、実質、三奉行になった時点で、「五奉行」制は骨抜きになった形ではないでしょうか。それが家康の目的だったという気もします。
 城番制については、谷氏の同書で、「秀吉生前から確認でき、その延長であったことが推測される」と指摘され、秀吉生前の例がいろいろ挙げられていますが、三成に関して云えば、次のような事例が示されています。
 「真田信幸ら大名たちが三成を訪ねるも、『御城御番』や『御番所』に詰めていたに面会できず、城番が終わるまで待たされた事例がある」と。
 この点について、真田信幸宛三成書状の中に、次のような記述があります。
 「御礼状拝見しました。このところ御城番にて宿へ帰ることもなく、御意を得ることもできません。御城番も近日に空くと思いますので、一夕つもる話をしましょう。恐々謹言」(中井俊一郎氏「石田三成からの手紙」【サンライズ出版】所載)。
 谷氏の同書の【註】には、史料としてこの他にも、年不詳の8月27日付の三成書状、年不詳の3月21日付の堀秀政書状が挙げられています。

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