関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2367 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」57 「総論」57 城番制3・伯蒲恵稜

<<   作成日時 : 2018/08/19 11:22   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、「五奉行」が、秀吉の遺言に従って城番を務めたことを示す史料としていくつか挙げられていますが、その続きです。
 「石田正澄が『御城御番』のために、正澄邸を訪ねた伯蒲恵稜と対面できなかった」ことが記されています。そのことを示す史料として、谷氏の同書の【註】に、慶長3年月不詳25日付の石田正澄書状案が挙げられています。
 恵稜は、三成が師事した妙心寺の高僧ですが、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、次のように記されています。
 「慶長4年、三成は師に請うて、父・正継のため妙心寺内に寿聖院を建立している。佐和山落城後、三成の嫡子・隼人正重家が伯蒲恵稜を頼ったのも、その縁によるものであろう。また、隼人正重家の助命に際して、伯蒲恵稜と南禅寺・金地院の以心崇伝との関係は無視できない。その関わりが、寛永5年の紫衣事件に際して、伯蒲恵稜が穏健派として奔走せざるを得なかった真因になったと考えられる。渡辺博士は板倉勝重を通じて徳川家康に許されたと記述しているが、表面的にはそうであろうが、事前に伯蒲恵稜から崇伝に斡旋を依頼し、崇伝の執り成しに拠ったものと考えられる。
 恵稜は寛永5年、紫衣事件で対立する妙心寺=大徳寺、対徳川幕府の関係修復のため江戸に下ったが、その帰路、近江・土山で没した。従者は喪を秘して龍安寺に帰り、その後に喪を発している。しかし、強硬派の優勢な妙心寺の僧たちは、一人として弔問に赴くものはいなかったと記録されている。伯蒲恵稜の紫衣事件に際しての苦衷がしのばれるのである」と。
 紫衣事件の際、沢庵宗彭が流罪になりますが、沢庵も三成と関係が深い人物でした。大徳寺の僧で、引退した三成が佐和山に母の菩提を弔うために瑞岳寺を建立した時に、三成の参禅の師であった春屋宗園と共に、佐和山に赴き、そのまま沢庵は佐和山にとどまりました。三成が関ヶ原の戦いに敗れ、六条河原で処刑された時、三成の遺骸を春屋と共に引き取りました。
 三成の嫡子の重家は、関ヶ原の戦いの後、出家して寿聖院の僧侶になり、後に寿聖院三世になっています。103歳の天寿を全うしました。
 谷氏の同書では、他の奉行の城番の例を挙げて、「城番の最中は御前や御番所に詰めていたため、私的な面会や応答はできなかったことが看取されよう」と指摘されています。伯蒲恵稜もしかりだったわけです。
 

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