関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2368 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」58 「総論」58 北政所と淀殿の連携

<<   作成日時 : 2018/08/20 11:01   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、「北政所派の加藤清正・福島正則と淀殿派の三成らの派閥争いがあった」という渡辺世祐氏の見解に対して、「北政所と淀殿が対立していたとするイメージは後世に形成されたものであり、両者は秀吉死後において協力しあっていたことが跡部信氏によって指摘されている」と記されています。
 渡辺氏の見解によれば、秀吉の死の直後から家康と三成は対立していたという捉え方ですが、家康=北政所=加藤清正・福島正則ら武断派VS淀殿=三成ら文吏派という構図は従来からなされてきましたし、司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)でも、そのような構図に従った描き方になっており、数々の関ヶ原本でも同様の捉え方がされてきました。
 谷氏の同書では取り上げられていませんが、この従来の捉え方を否定し、北政所は三成の決起を支持していたのみならず、晩年は北政所が三成に決起を促したという見解を示されたのが、白川亨氏です。
 北政所が三成寄りだったという根拠として、関ヶ原の戦いの後、北政所が御所に逃げ込んでいたという点、関ヶ原の戦いの後、三成の三女の辰姫を北政所の養女として、津軽家に嫁がせたことなどが挙げられています。
確かに、北政所は秀吉と共に豊臣家を築いてきたから、秀吉の死後の天下は家康に任せるといった従来の捉え方は、どう考えても徳川家に都合のよいもので、徳川の天下簒奪を正当化する理屈として創作されたという気がしてなりません。
跡部信氏の見解は、拙ブログでも紹介しましたが、関ヶ原の戦いの際の大津城攻めで、開城交渉に北政所と淀殿は連携して、使者を送ったという点が挙げられ、それは大坂の陣の際も、豊臣家存続のために協力しようとしていたとも指摘されています。
 これも谷氏の同書では取り上げられていませんが、福田千鶴氏も、跡部信氏の見解に同意し、秀吉の死後、北政所が大坂城から退去し京都新城に移ったのは、豊国社を管理し、朝廷との交渉のためであったと指摘されています。すなわち、淀殿は大坂城にいて秀頼を助け、北政所は京都で豊臣家のために役目を果たしていたというわけです。
 北政所と淀殿、家康と三成が当初から対立していたとする従来からの通説に対しては、谷氏の同書では、「諸将の動向は二項対立や党派争いに単純化される傾向がある。しかし、当時の大名たちの間には多くの対立軸があったことは想像に難くない」と指摘されています。

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