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zoom RSS 三成の実像2369 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」59 「総論」59 大名たちの対立軸

<<   作成日時 : 2018/08/21 11:38   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、秀吉死後の「文治派」と「武断派」の対立についての今井林太郎氏や笠谷和比古氏の見解が紹介されています。
 すなわち、「蔚山籠城戦後の判断をめぐって三成や小西行長らの『文治派』(吏僚派)と、加藤清正・黒田長政らの『武断派』(武功派)の間に軋轢が生まれ、それが後の七将による三成襲撃事件へと繋がった」と。
 こういう対立について、谷氏の同書には、「帰国後には実際に、彼らの間での相論へと発展し、『五大老』によって裁許が下されていることから、こうした対立があったことは事実である」と指摘されています。
 蔚山籠城戦で問題にされたのは、敵を追撃しなかったことと、現地の諸将らが勝手に戦線を縮小しようと計画したことであり、そのことを報告したのは三成ではなく(三成は日本にいました)、軍目付の、三成派と云われる福原長堯、熊谷直盛、垣見一直らでしたが、三成は立場上、彼らの報告を握りつぶすことはできませんでした。三成は文禄の役の際は渡海し、戦いの悲惨な様子を目の当たりにして戦争を継続することの非を悟り、和平を整える方向に向かいました。そういう三成にとって、現地の武将たちの思いはよくわかっていたはずですから、三成の心中は複雑なものがあったに違いありません。
 谷氏の同書には、「全ての局面を『文治派』対『武断派』といった対立軸だけで説明するのは正しくなく、様々な価値観や利害・知縁関係のもとで人々が場面ごとに選択を行っていたことには留意する必要があろう」と指摘されています。
 その例として、「三成の親友と見做されがちな大谷吉継ですら、秀吉死後の政局では三成や毛利輝元らと親交を保持しながらも、家康の公儀運営を支持する行動を取っていた」とする石畑匡基氏の指摘が挙げられています。
 吉継は、家康が秀吉の遺命に背いて他の大名と婚姻関係を結ぼうとし、四大老や五奉行らの糾弾を受けた際、それぞれの武将が前田利家と家康の屋敷にそれぞれ集まって、一触即発の危機になりますが、吉継は家康の屋敷に集まりました。
 もっとも、三成も佐和山に隠居してからは家康寄りになり、家康暗殺事件が起こった際、嫌疑がかけられた前田利長を牽制するために出兵しています。吉継も同じく出兵していますから、吉継も家康寄りだったわけです。三成の姿勢は、見せかけだったということも考えられますが、この時は家康の姿勢に問題を感じながらも、家康が 秀頼をないがしろにするわけではないと思ったから、家康の命令に従ったのかもしれません。

 

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