関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2370 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」60 「総論」60 三成襲撃事件

<<   作成日時 : 2018/08/22 00:03   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、七将による石田三成襲撃事件とその後の三成の失脚について、先行研究や最新の研究成果について取り上げられています。
 襲撃事件の際、三成が家康の屋敷に逃げ込んだという話は、よく小説やドラマで取り上げられ、司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)でもそのように描かれていますが、「笠谷和比古氏によって、逃亡先は家康邸ではなく伏見城内の治部少丸であったことが解明された」と記されています。
 笠谷氏のこの見解は、拙ブログでもたびたび取り上げてきました。
 笠谷氏の次のような見解も、谷氏の同書で紹介されています。
 「主に姜の『看羊録』によって、毛利輝元が安国寺(瑶甫)恵瓊の進言を受けて家康に調停を働きかけ、三成に対しては長束正家が家康に謝罪するように促したことも指摘している」と。
 「当該事件については近年、『厚狭毛利家文書』の輝元自筆書状が脚光を浴び、研究が進展した」と谷氏の同書で記されていますが、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で、この史料などの分析から襲撃事件の実相に迫っていました。
 この光成氏の同書で展開されている見解も、谷氏の同書で取り上げられています。
 すなわち、「七将側の一方的な攻撃ではなく、伏見城内に入った三成は当初、増田らが大坂城の秀頼を奉じて、尼崎に西上した輝元と協力して、家康や七将らと戦うという軍事作戦を計画していたものの、大坂城が徳川派に握られて味方の大名も少ないため、大谷吉継が和解へと誘導したと考えた。光成氏は文中に出てくる『三人衆』を蜂須賀家政・黒田如水・加藤清正と推測し、七将の背後に如水の存在があったと推測している。なお、輝元書状の追伸にある『治少ことのほかおれたる被申事候、長老之ふミをミ、なミたなかし候』という箇所については、光成氏は長老を安国寺恵瓊に比定し、落涙したのも毛利輝元と解釈している」と。
 もっとも、この書状の中の人物比定については、谷氏の同書で、次のように反論されています。
 「輝元は恵瓊のことを『安国』と書状で記す場合が多く、ここでの長老は承兌とすべきだろう。また、落涙したのも文脈上、布谷(陽子)氏らが指摘する通り、三成と考えるのが適切と思われる」と。
 三成が涙を流したというのは、10日に大原観音寺で行われた谷氏の講演会「石田三成の虚像と実像」でも触れられていました。
 
 

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