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zoom RSS 三成の実像2371「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」61「総論」61 三成の失脚・家康暗殺計画

<<   作成日時 : 2018/08/23 11:03   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、七将による石田三成襲撃事件とその後の三成の失脚について、先行研究や最新の研究成果について取り上げられていますが、その続きです。
 七将の背後に黒田如水の存在があったとする光成準治氏の見解に対して、「如水の行動は子の長政に協力しただけであるとする水野伍貴氏の批判や、増田長盛は三成の対家康の軍事計画に加わっていないとする石畑匡基氏の見方がある」と記されています。
 「また、水野氏は、当該事件は七将が家康に三成の制裁・切腹を訴えたものであり、襲撃事件と呼ぶのは不適切であると指摘したうえで、三成が大坂から伏見に逃れた理由は、利家の死によって大坂が家康に味方する勢力の拠点になったためとしている」ことも挙げられています。
 「また、加藤清正らは三成失脚の際に家康が調停に応じたことを不服として反目し、同年9月の大坂入城時の家康暗殺計画を主導したとも噂されている」と記されていますが、このことは姜(カンハン)の「看羊録」に記載があります。むろん、姜は朝鮮半島から日本に連れてこられた捕虜であり、その記述内容はあくまで伝聞に基づくものですが、何の利害も持たない人物ですから客観性があります。もっとも、「看羊録」の記述が正しいかどうか、日本側の史料と照らし合わせて検討することは欠かせませんが。
 三成が引退した後、家康は大坂城に乗り込み、そこで家康暗殺計画が起こったとされているわけですが、その折の三成の対応について、谷氏の同書では、水野氏の見解が紹介されています。 
 すなわち、「佐和山引退後の三成は、暗殺計画の際には家康に協力的な姿勢を示しており、大谷吉継や他の奉行らも家康と協働する場面が多かったことを水野氏は指摘している」と。
 この点について、水野氏の「石田正澄と石田三成」(『歴史読本』2011年12月号所載)の中で、次のように指摘されています。
 家康が大坂に入った時、「当初、家康は三成邸を宿所としていたが、三成邸に入った5日後の12日に正澄は家康に屋敷を提供して自身は堺へ移った」こと、前田利長に家康暗殺計画の嫌疑がかかった時、「佐和山にいる三成は、家康から利長の軍勢の上洛を阻止するよう命じられ、一千余の軍勢を越前に派兵している(『薩藩旧記雑録』)こと、「これらの事例から三成もほかの吏僚たちと同様に家康に恭順していたと推察できる。捕虜として日本に抑留されていた姜(カンハン)が、当時の三成の様子を『家康に媚びようという心積もりもあって』と認識していたのは興味深い記述である(『看羊録』)」ことなど。
 三成が家康の意向を受けて越前に派兵していることは「看羊録」にも日本側の史料にも記述があるので、事実であると思われます。

 
 

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