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zoom RSS 三成の実像2372「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」62「総論」62 家康暗殺計画2

<<   作成日時 : 2018/08/24 10:25   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、家康暗殺計画について、次のような新たな見解が示されています。
 「家康の暗殺計画には清正の他に、前田利長や宇喜多秀家・浅野長政・細川忠興らも関与していたと噂されていたが、これが事実とすれば、彼らの結集核は何だったのであろうか。関係者の一人である大野治長は、事件直前の慶長4年9月3日、『太閤様ヲ神ニ御祝ノ由』を吉田兼見に依頼し、社家の鈴鹿左近はそのことを密事として兼見から伝えられている。阿弥陀ケ峯に秀吉廟が建てられ、豊国大明神として祀られたのは同年4月のことであるため、ここでの『御祝』は大坂でも豊国大明神を祀る営みを行うことを指すものと思われる。よって、大坂城内での豊国大明神の祭事を精神的紐帯として暗殺計画が立てられた可能性が想定される。計画が失敗した結果、治長は責任を負わされて流罪とされたのではなかろうか」と。
 カンハンの「看羊録」では、家康を討とうと考えたのは清正であり、その同盟者として前田利長・宇喜多秀家・伊達政宗・細川忠興・黒田長政・浅野長政・幸長らの名が挙げられています。清正が家康を討とうと考えたのは、家康が七将による石田三成襲撃事件の際、三成を守ったことに不満を募らせたからだと記されています。本当にこういう計画があったのかどうかは日本側の史料から確かめる必要がありますが、谷氏の指摘のように、そういう噂があったからこそ、カンハンはそのことを書き留めたのでしょう。谷氏の見解では、事件後、流罪にされた大野治長にスポットを当て、豊国大明神の祭事と関連させて、そういう計画があったと指摘されています。
 「看羊録」では、三成が家康暗殺計画があることを家康に知らせたと記されていますが、これは史実として確かめられたことではありません。通説では、増田長盛が、大坂に入った家康に知らせたということになっています。小説では、暗殺の噂を流したのは家康自身であったという捉え方もよくなされています。このあたり、本当はどうであったのか、なおこれからの検討課題だと思われます。
 なお、大野治長が流罪になったのは、淀殿との不義が咎められたことがよく言われていますが、これも検討の余地があります。これは秀頼が大野治長と淀殿の間に生まれた子だったということから来る俗説ではないでしょうか。
 たとえ、そういう不義のようなことがあったしても、家康がそのことを問題視して、処罰を与える権限はなかったのではないでしょうか。そういう点でも、治長が家康暗殺を実際計画していたという谷氏の見解には、納得できるものがあります。
 

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