関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2375 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」65「総論」65 兼続との共謀説をめぐって

<<   作成日時 : 2018/08/27 10:50   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」ののことであるた・うち、「合戦における石田三成」の中で、三成の挙兵の際、直江兼続と共謀していたかどうかについて、渡辺世祐氏・今井林太郎氏・木村徳衛氏・太田浩司氏が否定的な見解を示しているのに対して、笠谷和比古氏が肯定的な見解を示していることが記されています。肯定的な見解は、「続武者物語」所収の6月20日付と7月14日付の三成書状が本物だとしていることが根拠に挙げられています。
 谷氏の同書では触れられていませんが、白川亨氏も共謀説肯定派であり、その根拠として、三成の次女が関ヶ原の戦いの前に上杉家臣の岡半兵衛に嫁いだことが挙げられています。その時期について、慶長4年の終わりか慶長5年の初めのことであり、直江兼続の斡旋によってだとされています。慶長4年8月上杉景勝が帰国した時、直江兼続が佐和山に立ち寄り、その婚儀を整え、その際反家康の盟約を結んだと云います。
 もっとも、上杉氏が帰国した後、家康暗殺事件が起こり、前田利長に嫌疑がかかり、三成は家康に命じられて利長の上洛を牽制するため兵を出していますから、この時は三成は家康寄りと考えられなくはありません。そうだとすれば、三成がその前に兼続と反家康の盟約を結んだというふうには捉えにくいことになります。むろん、この婚儀は、三成と兼続の結びつきを強くするためであり、実際2人の関係は強固になったに違いありません。
 このあたりは、今後の研究課題です。 
 また、谷氏の同書には、「近年では、三成は常に家康に敵意を持っていたわけではなく、単独で挙兵したわけでもなく、毛利輝元や宇喜多秀家らが積極的に対家康戦への主体性を見せ、三成もそうした動向を踏まえて計画を始動したとする水野伍貴氏の見解や、三成の挙兵自体が大谷吉継や安国寺恵瓊の説得によるものとする高橋陽介氏の推測が提起されている」ということも記されています。
 毛利輝元については、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)の中で、輝元の上坂が迅速なこと、輝元が西国で領土を広げようと積極的な動きに出ていたことが指摘されていますから、三成と緊密な連絡を取っていたことは十分考えられます。
 光成説の見解については、谷氏の同書では、次のような指摘がされています。
 「7月15日の時点で輝元や三奉行が三成に与同していたのであれば、輝元の居所が広島であることから、光成準治氏も指摘する通り、少なくとも7月12日以前に彼らの内で共謀が成立していたと考えるべきであろう」と。
 「7月15日の時点で」とあるのは、同日付の島津義弘書状に、「義弘は、毛利輝元・宇喜多秀家・三奉行・小西行長・大谷吉継・石田三成らが共同戦線を張っていることを上杉景勝に伝えるべく書状を記している」とあるからで、谷氏はこの「義弘の伝えた情報は事実である可能性が高い」と指摘されています。

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