関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2377「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」67「総論」67 三成の挙兵をめぐって2

<<   作成日時 : 2018/08/29 10:54   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、7月12日付の家康家臣宛ての増田長盛書状に記されている、「三成と吉継の不穏な挙動は7月11日前後の出来事であろう」と推測され、慶長5年8月22日付の佐々正孝書状によれば、「三成側から吉継に使者を派遣して談合が行われたようであり、三成の主体性が認められる」と指摘されています。
 このことからすれば、吉継から三成に挙兵を持ちかけたとする高橋陽介氏の見解は、成り立たなくなります。もっとも、7月12付の増田長盛書状については、拙ブログで触れたように、偽書ではないかという白峰旬氏の見解がありますが。
 谷氏の同書には、「江戸と上方の距離を勘案すれば、三成の挙兵は、7月2日の家康の江戸到着の報せを受けたものと考えられよう」と指摘されています。
 もしそうであれば、三成が7月2日に挙兵することを吉継に打ち明けたものの、吉継はすぐには同意しなかったため、説得に何日かかかったという従来からの説は成り立たなくなります。
 谷氏の同書には、「当時、会津攻めの後発隊として、彼らの他、安国寺恵瓊や玄以の子である茂勝らが東へ向かって進軍中であった。しかし、彼らの行動は緩慢であり、一部が三成らに同調して伏見・大坂へ戻っていったのである」と記されていますが、この典拠として「義演准后日記」7月11日条、「時慶記」7月13日条、7月13日付の毛利氏家臣連署状が挙げられています。
 谷氏の同書には、「三成らは挙兵後に家康に対して自らの領国に留まるように伝言を送ったとされ」、「家康を会津へは向かわせず、江戸に釘付けにすることが彼らの狙いだった可能性がある」と記されていますが、この典拠はイエズス会側の史料である「1599ー1601年、日本諸国記」です。
 この点について、白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」(『別府大学大学院紀要』第17号所載)の中で、次のような記述だと記されています。
 「彼らは内府様に自らの領国に留まるようにとの伝言を送り、幼君秀頼様に対し、またその父君太閤様の命に背き犯した数ヵ条の罪状をつきつけた」と。
 「彼ら」とは三成ら反家康勢力のことであり、「内府様」は家康のことです。この記述について、次のように解説されています。
 「このように豊臣政権から家康に対して江戸に留まるように、と命じていたとすると、家康が8月中は江戸から動けなかった理由が明瞭に理解できる。その意味では、家康は江戸から動かなかったのではなく、動けなかったということになる」と。
 通説では、家康は江戸で諸大名に書状を送り多数派工作をしていたというように、家康の動きを肯定的に捉えられていますが、別の見方ができるわけです。

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