関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2351 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」41 「総論」41 八十嶋助左衛門尉

<<   作成日時 : 2018/08/03 10:39   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「領主・代官としての石田三成」の中で、三成家臣の八十嶋助左衛門尉についても取り上げられています。
 まず「福岡市博物館が平成8年度に購入した『石田三成関係文書』は」、「宛名から、三成家臣の八十嶋助左衛門尉の手元にあった文書群と考えられる」と記され、そのうちの5月3日付で在京中の柏原彦右衛門尉・黒川右近・渡辺采女が八十嶋に宛てた書状について、論じられています。
 この書状については、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で取り上げられ、次のように現代語訳されています。
 「態々(わざわざ)言上します。
 一、秀頼様は伏見城御船入の御殿にいらっしゃり、増田長盛(右衛門尉)殿・長束正家(大蔵)殿・瀬田正忠(掃部)殿・宇喜多秀家(備前)殿が在番として御詰めになっています。西丸の御作事が済むまでは、御船入にいらっしゃるとのことです。
 一、昨日、福原長堯(右馬助)殿・熊谷直盛(内蔵助)殿・太田一吉(飛騨守)殿・垣見一直(和泉守)殿に(秀吉が)拝謁されました。大変機嫌よかったとのことです。上様は、どこへ御成【おなり】とのお話もでていません。何か変わったことがあれば、近々に申し上げます。右の通り(三成に)御披露のほどお願いします」と。
 この書状について、中野氏の同書では、慶長3年のものと比定され、次のように解説されています。
 「八十嶋助左衛門尉は、蒲生旧領の会津領検地にかかわっており、ここでは三成に従って帰路の途次にあったものと推察される。したがって、この連署状は、伏見にいる三成の家臣が、秀吉や秀頼の動静を三成側近に充てて報じたものと考えられる。こうしたかたちで、石田家中による書状のやりとりが確認されることは稀だが、内容から推して、この時が特例とも考えられない。三成が上方を離れる場合には、このようなかたちで、石田家中が三成へ秀吉・秀頼の日常を報じていたと考えられよう」と。
 谷氏の見解も、中野氏と同様、慶長3年の書状のものと比定されていますが、その根拠として、同年5月20日付の西笑承兌書状案に「秀頼様ハ当月朔日ニ舟入の御殿へ御成ニ候」という記述があることが挙げられています。
 もっとも、谷氏の見解では、「文中の『掃部殿・備前殿』は、福田(千鶴)氏・中野氏ともに瀬田掃部と宇喜多秀家としているが、秀頼に近侍した石川一宗と光吉の兄弟であろう」と指摘されています。
 石川一宗と光吉は兄弟ですが共に三成とは関係が深い人物であり、一宗の妻は宇多頼忠の娘ですから、三成とは義兄弟であり、光吉は貞清ともいい、共に関ヶ原の戦いの際は三成方に属しています。
 
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2351 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」41 「総論」41 八十嶋助左衛門尉 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる