関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2378 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」68 「総論」68 関ヶ原開戦1

<<   作成日時 : 2018/08/30 11:11   >>

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  谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、「関ヶ原の戦いにおける、いわゆる『西軍』と『東軍』という呼称については、江戸時代以降のものであるため、適切ではない」という中野等氏の見解があるものの、「諸研究においてその呼称がまちまちである現状を考慮し、混乱を避けるために本稿では『 』を付して記述を行いたい」と記されています。
 ちなみに、白峰旬氏は「西軍」を石田三成・毛利輝元連合軍、「東軍」を徳川家康主導軍、矢部健太郎氏は「西軍」を正規軍、「東軍」は維新軍(家康は「内府ちかひ」の条々が出されて以降、公儀性が失われたという見解を矢部氏は示されており、白峰氏の見解が踏襲されています)と名付けています。
 谷氏の同書には、「関ヶ原の戦いという名称自体についても、主戦場は山中であったことが指摘されているが、ここでは一般の認知度を考慮してそのまま用いる」と記されています。
 「主戦場は山中であった」という見解は、白峰氏の見解だということが【註】で示されていますが、白峰氏は関ヶ原の戦いを含めた慶長5年の全国に及ぶ争乱状態を「庚子争乱(こうしそうろん)」と名付けられています(「新・『関ヶ原合戦』論」)。
 7月25日に家康らが会津攻めを止めて三成らを討つことに決めたという、いゆわる「小山評定」について、それがあったかなかった議論されていることも、谷氏の同書に述べられ、論者の見解の概要が紹介されています。
 すなわち、「否定説を唱えた白峰旬氏は、評定があったとする一次史料が存在しない点を重視し、最近では同日には家康は小山から宇都宮へ移動していたと見る。一方、実在説を唱える本多隆成氏・水野伍貴氏は、軍勢の西上にあたっては意見をすり合わせる場が不可欠であったとしてそれに反論している」と。
 「小山評定」についての議論は、今まで拙ブログでも取り上げてきました。まず白峰氏の「新『関ヶ原合戦』論」で、「この有名な話は、幕府が編纂した徳川家の正史である『徳川実記』に記されているが、こうしたドラマチックな展開が本当にあったのかどうか史料批判の必要があろう。『徳川実記』は江戸時代後期の編纂史料であり(文化6年〈1809〉起稿、嘉永2年〈1849〉完成)、『徳川実記』が家康の政治行動・軍事行動を正当化する歴史観に基づいて書かれていたことを考慮すると、家康が東下した豊臣系諸将からいかに信望が厚かったかを演出するエピソードとして出来過ぎた話がという印象を受ける」と記されています。
その後、白峰氏は「フィクションとしての小山評定ー家康神話創出の一事例ー」(『別府大学大学院紀要』第14号所載)などの論文を出されましたが、本多隆成氏は「小山評定の再検討」(『織豊期研究』第14号所載)で光成準治説や白峰説に反論されています。さらにそれに対する再反論を白峰氏がされ、それに対して本多氏が「『小山評定』再論」(『織豊期研究』第17号所載)で反論され、さらに白峰氏の「いわゆる小山評定についての諸問題」(『別府大学大学院紀要』第19号所載)が出、論争が続いていますが、その議論の行く末を見守っていきたいと思います。 
 
 

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