関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2379 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」69 「総論」69 関ヶ原開戦2

<<   作成日時 : 2018/08/31 11:03   >>

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  谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、「シリーズ・石田三成」には、布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」が収録されていることが記されており、その内容についても概説されています。
 すなわち、「同論文は『西軍』の中心人物は三成のみではなく、毛利・宇喜多・玄以・増田・長束らが連合したものと評価している。また、布谷氏はこの二大老・四奉行による『西軍』の合同運営が8月上旬まで継続していたことも指摘している」と。
 この論文については、改めて拙ブログで取り上げますが、白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究『史学論叢』第46号所載)の中で言及されていますし、拙ブログでも触れました。
 谷氏の同書には、白峰旬氏の同論文などで指摘されている、次の見解も紹介されています。
 「『内府ちがいの条々』によって家康が公儀性を剥奪され、秀頼を直接推戴する石田・毛利連合政権が成立し、慶長5年7月から9月までの間、公儀として機能していたと論じている」と。
 白峰氏のこういう見解に対して、谷氏の同書では、次の点で肯定的に捉えられています。
 「三成ら『西軍』側が公儀性を獲得していると主張したのは確かであろうし、伏見城攻めの際に彼らが『秀頼様衆』と呼ばれていることから、周囲からもそのように理解される場面があり、一時的に政権運営を行っていたことも事実といえる」と。
 もっとも、次のような疑問点も示されています。
 「しかし、仮に秀頼を推戴して知行宛行権や大名の成敗権などを有していることが政権の成立要件であるとするならば、遅くとも慶長4年10月以降は徳川政権とすべきであり、議論の一貫性が求められよう。あくまでも秀頼政権を誰が補佐し運営するのか、という次元の問題として捉えるべきではないだろうか。また、家康が公儀性を失ったとするならば、なぜ『東軍』諸将が家康に従ったのかについて説明を加える必要があろう」と。
 慶長4年10月以降は家康の横暴が目立ちますが、あくまで秀頼を推戴した大老としての立場ですから、公儀性は有していますから、石田・毛利連合政権と同様、徳川政権と見なすことは可能だという気がします。また、「内府ちがいの条々」によって公儀性を失った家康に、会津攻めのため東下していた諸将が家康に従った理由については、今後検討すべき課題だと言えますが、それまで政権を運営し圧倒的な力を持つ家康に従った方が有利だという思惑が働いていたからだとは云えないでしょうか。

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