関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2354 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」44 「総論」44 忍城水攻め

<<   作成日時 : 2018/08/06 17:26   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、「三成は武官(武将)としてよりも文官(吏僚)としての印象が強く、戦場での活動についても、一般には消極的に捉えられることが多い。しかし、これまでの諸研究が明らかにしてきたように、三成も合戦において重要な役割を果たす場面があった」と記されています。
 私も以前は三成は専ら文官として活躍してきたと捉えてきましたが、中井俊一郎氏の見解によって、武将としての働きも並々ならぬものがあったというふうに考えるに至りました。文禄の役の際の碧蹄館の戦いで味方を勝利に導いたのは、三成の高い戦略眼があったということ、戦下手の代表とされる忍城の水攻めも、三成自身が考えたものではなく、秀吉の命令で、彼自身は現地の地形を見て水攻めでは落ちないと考えて反対していたこと、関ヶ原の戦いも家康の策略に引っかかり、関ヶ原へおびき出されたのではなく、小早川秀秋の謀反に備えて自ら関ヶ原へ移動したことなど。もっとも、三成ら豊臣公儀方の関ヶ原方面への移動は、大垣城の後詰である南宮山の軍勢と家康方軍勢を挟撃するためであったとする白峰氏の新しい見解がありますし、三成らは関ヶ原ではなく山中方面に移動し、主戦場は山中であったとの、これも白峰氏の見解があります。これまでの通説とは違って、関ヶ原の戦いの実態がどのようなものであったのかについては、一次史料の検討を通じて今後解明が進んでいくことを期待しています。なお、関ヶ原の戦いにおける白峰氏の見解は、谷氏の同書でも紹介されていますが、これについては改めて述べます。
 忍城の水攻めに関しては、谷氏の同書でも、三成の発案であったとする従来の説が否定され、次のように指摘されています。
 すなわち、「実際には水攻め自体は秀吉の命令であることが明らかにされ、水の流入や堤の決壊もなかった可能性が有力視されている。田口卯吉氏は、三成が秀吉らに築堤の遅れをごまかすような報告をしており、秀吉も荒川の堰き止めを深谷上杉氏に命じるなど、三成への不信任と見られる指示が出されたことを指摘している」と。
 三成がごまかすような報告をしていたかどうかは検討の余地があります。もっとも、忍城の水攻めは三成の発案ではなく、秀吉の命令だったということが、広く世間に受け入れられてきたのは嬉しいことですが、先行研究した中井氏の名がないのは物足りなくも、寂しくも思いました。
 この忍城の水攻めに関して、谷氏の同書の(註)には、田口氏と中蔦信弥氏の論考は掲載されていますが、中井氏の論考は載っていません。なお、「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」には鈴木紀三雄氏の「忍城水攻め」の論考が収録されていることや、忍城水攻めに関する太田浩司氏、矢部健太郎氏、中野等氏の見解も紹介されていますが、これらについては後述します。
 
 
 

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