関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2355 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」45 「総論」45 賤ヶ岳の戦い

<<   作成日時 : 2018/08/07 10:34   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、賤ヶ岳の戦いにおいて、「三成は『七本槍』に次ぐ活躍をしたとされる」と今井林太郎氏の「石田三成」(吉川弘文館)に記されているものの、「確実な史料ではその根拠を見出せない」と指摘されています。
 「三成は『七本槍』に次ぐ活躍をしたとされる」のは、「一柳家記(ひとつやなぎかき)」に記載があるからですが、この点について、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)の中で、次のように記されています。
 「『一柳家記』によれば、秀吉の『先懸衆(さきがけしゅう)』として柴田軍に突撃した将兵十四人の中に、石田三成の名が見えている。石田三成の数少ない武功を示す記事として貴重だが、他の史料には登場しないので、信憑性は低いと考えられる」と。
 これが今のところ、一般的な理解でしょう。
谷氏の同書には、賤ケ岳の戦いで、「近江の称名寺に柳ヶ瀬(勝家の陣所)の動向を探る諜報活動をさせていたことは事実である」との太田氏の同書の記述が紹介されています。この称名寺宛ての三成書状の内容は、太田氏の同書ではむろんのこと、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)の中でも取り上げられており、拙ブログでも何回も言及しましたが、谷氏の同書では、この書状から「寺社関係者の活用の在り方を窺うことができる」と指摘されています。
 この点について、谷氏の同書では、「使僧の活用」という項目が設けられ、具体的に述べられていますが、それについては改めて取り上げます。
 太田氏の同書の中で、この称名寺宛ての三成書状について次のように解説されています。
 「この柳ヶ瀬に配置した者は、もちろん『忍びの者』であろう。おそらく、敵情を偵察する役目を負っていたと見られるが、称名寺はその『忍びの者』を管理・監督する立場にあったと考えられる。この時代の称名寺住職であった性慶(せいきょう)は、本能寺の変に当たり長浜城にいた秀吉妻子を、美濃国へ安全に避難させた実績があり、秀吉の厚い信頼を得ていた」と。
 また中井氏の同書の中では、次のように解説されています。
 「三成はその地縁をフルに生かして、地元の集落・寺院に働きかけ諜報活動にあたっていたのであろう。(中略)称名寺も現在の長浜市尊勝寺町にあり、三成はそこから勝家本陣の動きを探らせていたのである」と。
 こういう諜報活動の重要性をよく認識していた三成ですから、関ヶ原の戦いでもフルに活用していたはずで、情報戦に三成は負けたという従来からの捉え方が本当に正しいかどうかは検討の余地があります。

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