関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2356 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」46 「総論」46 大崎・葛西一揆

<<   作成日時 : 2018/08/08 10:59   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、大崎・葛西一揆の際、奥州へ再下向した時のことについて論じられています。
 すなわち、「天正18月年12月、三成は大崎・葛西氏の旧臣による一揆に対処するため、奥羽への再下向を命じられる。現地で対立した蒲生氏郷と伊達政宗の双方を上京させることが目的であり、三成は相馬から引き返す途中の翌年閏正月4日、おそらくは常陸国内で佐竹義宣に書状を送り、翌日の面会を申し入れている」と。
 三成の奥州再下向は、大崎・葛西一揆の勃発を受けた突発的で、急なものでした。三成は北条攻めの後、奥州仕置に赴き、11月頃には上方に戻っています。利休が11月12日に行った茶会に、佐竹義宣・万代屋宗安らと共に三成も招かれています。それから1ヶ月余り経った12月16日、三成は奥州に出立します。ちなみに、この後あたりから大徳寺に安置された利休の木像が問題になっていますから、利休事件が問題となった時には、三成は不在でした。三成が上方に戻ってきた時には、利休事件は抜き差しならないところまで進んでいましたから、そういうことからしても三成が利休事件に関与していたとする説は成り立たないことがわかります。
 この義宣宛ての三成書状について、「義宣との再会を心待ちにしたものとする」中野等氏の見解に対し、「当時の佐竹領国では義宣と一族の義久との間に領地をめぐる確執が存在し、三成は後者に協力的であったとする見解を参考にすれば、むしろそうした問題の軟化を目指した会合と考えるのが妥当ではないか」という谷氏の見解が示されています。三成が義久に協力的であったというのは市村高男氏の見解だということが、谷氏の同書の【註】に示されていますが、もしそうなら、義宣と三成が親しくなったのは、この会合以降だったかもしれません。
 谷氏の同書では、天正19年閏正月10日付の三成宛ての関右兵衛尉(政勝 後の一政)書状が取り上げられ、次のように解説されています。
 「政宗は閏正月4日に陸奥国二本松、12日には武蔵国岩槻に到着した。よって、ここでいう『当地』は政勝の居城がある白河を指す可能性がある。政宗はおそらく6日か7日には白河に到達したのであろう。三成は12日以前に岩槻に到着しており、政勝に道中の案内者の斡旋を頼んだところ、家康家中の小田原城主・大久保忠世を紹介されたのである。この後、三成は2月中旬までには帰京している」と。
 2月中旬までには帰京しているというのは、中野氏と同じ見解です。利休が秀吉の命令で京屋敷から堺に移されたのは、2月13日のことで、その時に三成が帰京していたかどうかは微妙です。しかし、大徳寺の利休の木像が問題視されたのは、それより以前のことですから、三成は戻っておらず、三成不在の間に、利休への糾弾は始まっていたわけです。 

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