関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2389「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」79「総論」79 使僧の活用2 寺内織部2 

<<   作成日時 : 2018/09/10 10:55   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「豊臣政権の三成」の中で、「使僧の活用」と題して、その実態が考察されていますが、天正17年に三成が芦名氏と音信を行う中で、交渉を担当した寺田織部という人物についての履歴が述べられていますが、その続きです。
 天正8年「6月に教如が北陸の門徒を勢力下におくために越中・加賀へ遣わしたのが寺内織部と井上善五郎であった。両者御堂で御文を誦むなどの教化活動にあたることや、上杉景勝家臣の河田長親と結ぶことが求められており、教如の期待も大きかったと思われる。8月に教如が大坂を退城すると、顕如は『狼藉之働』を行う寺内・井上を成敗するよう加賀の門徒に伝えている」と記されています。
 長浜市長浜城歴史博物館発行の図録「顕如・教如と一向一揆」に掲載されている「顕如上人・教如上人関係年表の天正8年の項に次のように記されています。
 「閏3月5日、勅命により本願寺と信長の講和が成立する。4月9日、顕如上人が大坂本願寺を退去し紀州に向かう。8月2日、教如上人が大坂本願寺を退去し紀州へ向かう」と。
 信長に対してハト派の顕如は4月に大坂本願寺を退去しますが、タカ派の教如が退去するのは8月ですから、4ヶ月ほど抵抗したのですが、その間に、教如は寺内らを北陸に派遣し、勢力の拡大をはかっていたわけです。これは教如が独断で行っていたことで、それは顕如が寺内などの成敗を求めていることでもわかります。しかし、この二人の対立は、谷氏の同書によれば、「本能寺の変後の天正10年6月、教如は顕如からの義絶を解かれる」ことによって、解消します。
 その後の教如、寺内の動きについては、谷氏の同書に次のように記されています。
 「10月には、明智光秀を倒した羽柴秀吉らに顕如が音信を送り、教如からも初めて秀吉へ御礼がなされる。そのときに使者として山崎宝寺城へ赴いたのは寺内伯耆守であった。これ以後、寺内氏は秀吉と関係を結ぶようになったと思われ、翌年4月には織部が上杉景勝への使者として派遣される。秀吉は柴田勝家挟撃作戦において景勝が動かなかったことを詰問するにあたり、かつて北陸へ下って景勝方と交渉を行ったことのある織部を適任者と見て登用したのである。ただし、この時点ての織部はまだ教如の配下とあったと見られ、北陸での上杉家中のもてなしに感謝したうえで、景勝と教如との音信をも依頼している」と。
 典拠として、天正11年8月18日付の素休書状が【註】に挙げられていますが、谷氏の同書では、素休は寺内と同一人物と見なされており、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中では、天正17年7月1日、12日付の芦名家中の金上兼実宛ての素休ら連署状が取り上げられています。この頃には素休は三成の家臣になっており、谷氏の同書でそのことは触れられており、これについては後述します。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2389「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」79「総論」79 使僧の活用2 寺内織部2  関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる