関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2390「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」80「総論」80 使僧の活用3 寺内織部3

<<   作成日時 : 2018/09/11 10:49   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「豊臣政権の三成」の中で、「使僧の活用」と題して、その実態が考察されていますが、天正17年に三成が芦名氏と音信を行う中で、交渉を担当した寺内織部という人物についての履歴が述べられていますが、その続きです。
 最初は教如上人側の人物として動いていた寺内ですが、その後、三成との関係が深まり、それについて次のように記されています。
 「天正14年になると、織部は上杉家と三成を繋ぐ回路の一つとして行動しているように見受けられるようになる。直江兼続への返答にあたって、三成への意図を代弁する役割を果たしているのである。おそらく、秀吉の対上杉交渉が三成に委ねられていく中で、織部も三成の指示を受けることが多くなっていったのであろう。同17年には芦名氏との交渉を担当し、武藤義勝の上洛の際には三成の小奏者として織部の名が見え、7月末には芦名氏を支援するために越後に派遣されている。この頃までには織部は三成家中に転身(もしくは両属)しており、芦名・武藤の両氏は景勝を通して政権と関係を持っていたため、それらとの交渉に起用されたのであろう」と。
 直江兼続への返答の出典は、【註】に天正14年9月22日付の素休書状が挙げられています。
 武藤義勝は大宝寺義勝とも云い、幼名は千勝丸です。父親は本庄繁長であり、天正15年に出羽庄内の武藤(大宝寺)義興が没すると、繁長が千勝丸を武藤家に入れたため、最上義光がこれに反発し、争いが起こり、義光が秀吉に訴えます。秀吉は両者の言い分を聞くため、秀吉は召喚を命じます。この時、最上側の奏者を務めたのは富田一白であり、上杉・本庄方の奏者は三成と増田長盛が務めました。秀吉は繁長の代わりに千勝丸の上洛でも構わないと秀吉は言ったため、千勝丸は天正17年6月28日に上洛し、7月4日に秀吉に拝謁します。この間、三成と増田長盛が、その周旋を行っていたことが「大宝寺義勝上洛日記」などから確認することができます。これらのことは、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)に記されています。織部はこのことに関わっていたわけです。
 一方、芦名家と三成のつながりについても、中野氏の同書に詳しく記されています。
 すなわち、天正16年の末に蘆名(芦名)義広の家臣の金上盛備が上洛し、帰国した後、蘆名家の宿老の富田氏実が早速三成に礼状を送り、三成が送った天正17年3月24日付のその返書が、中野氏の同書で取り上げられています。三成はその返書で義広自身の上洛を求め、同日付の蘆名家の重臣宛ての同内容の徳芳ら連署状も取り上げられていますが、両方の書状にも寺田織部(谷氏の見解では寺内織部のこと)の名が記されており、小奏者としての役割を果たしていたことがうかがえます。
 

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