関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2393「シリーズ 石田三成」83「総論」83 使僧の活用5 本願寺との関係

<<   作成日時 : 2018/09/14 10:54   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「豊臣政権の三成」の中で、「使僧の活用」と題して、その実態が考察されていますが、その続きです。
 秀吉や三成らが、使僧を家臣にしたことについて、次のような見解が示されています。
 「譜代家臣を有していなかった秀吉や秀次、三成らにとって、寺社やその関係者は重要な人材の供給源であったといえよう」と。
 三成の家臣団については、中井俊一郎氏の「秀次・蒲生牢人を吸収、三成苦心の家臣団構成」(『歴史群像シリーズ 決戦関ヶ原』【学研】所載)の中で、生え抜きの家臣、筒井牢人、秀次牢人、蒲生牢人などの牢人衆、一門衆などに分かれることが記されています。
 さて、谷氏の同書では、本願寺と三成の関係について次のように記されています。
 「政権の初期から見られ、天正18年7月に顕如が関東平定を祝う使者を派遣し、それへの御礼を秀吉が述べた際、増田長盛と共に三成が添状を発給したように、その後も継続していた。翌月には相馬・岩城領の検地に下っていた三成の元へ教如からも音信があり、奥州から帰京した天正19年2月には、三成は顕如に一礼を行っている」と。
 この前後の秀吉と本願寺の関係ですが、「顕如上人・教如上人関係年表」(長浜市長浜城歴史博物館『顕如・教如上人関係年表』所載)の中で、次のように記されています。
 「天正18年1月、豊臣秀吉が本願寺の京都移転を命じる。7月、本願寺に絵所を置く」
 「天正19年8月3日、本願寺が京都堀川へ移る」
 これが現在の西本願寺に当たるわけですが、この時期は顕如・教如と秀吉・三成の関係は悪くなかったことがうかがえます。むろん、本願寺側も秀吉の意向に添うことによって、勢力を維持してきたわけですが。関ヶ原の戦いの後、教如は家康によって寺領を与えられ、東本願寺が創立されますが、この時期、教如は秀吉政権寄りだったわけです。5年前の三成祭の時に開かれた、太田浩司氏の講演「本願寺と石田三成」の中で、年不詳8月27日付の、三成に宛てた、検地の労をねぎらう教如書状が取り上げられていましたが、谷氏が言及されている教如書状とは別のものなのでしょうか。
 いずれにせよ、この時期、教如が政権に従順だったのは確かです。しかし、文禄元年に顕如が亡くなり、その後を継いだ教如に対して、翌年、秀吉は教如に退隠命令を下し、弟の准如が本願寺住持に就任するに及んで、教如は別行動を起こし、秀吉政権とは距離を置きます。もっとも、そのもとは教如が信長に対して抗戦派だったことにあるという太田氏の見解は十分納得できますが。

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