関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2395  谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」2 父・正継の人物像 

<<   作成日時 : 2018/09/16 11:02   >>

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 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」ですが、第一章で三成の一族について述べられていました。
 石田一族について、「先祖代々、京極氏・浅井氏に仕える地域の有力武士(地侍・土豪)」であり、青蓮院門跡領の代官を務めたと述べられていました。このことは谷氏の「総論 石田三成」の中でも記されています。
 大原観音寺文書の中にある、石田氏に関する一番古い史料として、応永26年(1419)に観音寺本堂造立への寄付の人名に「石田東殿」という記載があることが挙げられ、「大原観音寺は石田一族と長きにわたって縁が深い寺院」だと指摘されていました。
 この史料については、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)の中で取り上げられており、次のように指摘されています。
 「当時、『殿』という敬称をもって呼ばれた人々は、土豪という『村の武士』であった。この『石田東殿』が、石田三成の祖先という可能性は大である」と。
 三成の父の正継という人物については、「読書家で三成にも本を勧め」、「言葉遣いや藍印など、ユニークな人物」であり、「三成の代わりに領国支配も担当」し、「『大原観音寺文書』に関連史料が多く残る」と説明されていました。
 このうち、一点目に関しては、谷氏の同書には、「正継は醒ヶ井の松尾寺から60巻の書籍を借り受け、三成にも見せようとしたが機会がなく返却していることから、教養人であったことが」渡辺世祐氏によって指摘されていることが記されています。
 二点目に関しては、やはり谷氏の同書に、太田氏の見解であることが記されていますが、太田氏の同書の記述は次のようなものです。
 「正継の命令書には、公文書としては異例な口語的な文言が多く使われており、その型にはまらない『気さく』な人柄がしのばれる。また、署名の下に据える花押や黒印の他に、これまた当時としては異例な藍印(青い印)
を使用した人物も私は寡聞にして知らない。何事にも『こだわり』をもった、粋な人物像が浮かび上がってくる」と。
 三点目に関しては、太田氏の同書に、次のように記されています。
 「三成が佐和山城主になると、秀吉の側につめ居城には戻れない三成に代わって、湖北四郡(伊香・浅井・坂田・犬上)の領内支配したと考えられる。この頃には『隠岐守』に叙任している」、三成が「湖北四郡を領国としたのは、文禄4年(1595)であ」り、「正継の湖北の統治関係文書も、文禄4年のものが大半である」と。
 四点目に関しては、太田氏の同書に、「正継は『観音寺文書』中に3通の書状を残している。いずれも『十左衛門尉正継』、あるは『十左正継』と署名し、浅井長政の家臣時代の文書である」と。

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