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zoom RSS 三成の実像2396  谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」3 兄・正澄の事績

<<   作成日時 : 2018/09/17 11:13   >>

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 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」ですが、第一章で三成の一族について述べられ、三成の兄の正澄については、次のように述べられていました。
 「三成と同様、秀吉の家臣として活躍。『執政之重臣』と称される」、「三成の後に堺政所にも就任、多忙な三成の代わりに諸大名をもてなすことも」あったと。
 「執政之重臣」と評したのは藤原惺窩だということが、谷氏の「総論 石田三成」に記されています。また谷氏の同書では最初、「正澄代官所は河内にあった」と推定され、「後に正澄は近江で一万五千石を知行したと推測され」るという渡辺世祐氏の見解、「彼が在地に出した法令から、伊香郡古橋村がその一部であったと考えられている」という太田浩司の見解、「慶長4年正月には秀吉に近侍する『秀頼四人衆』に選ばれた」という福田千鶴氏の見解も、紹介されています。
 古橋村へ出した法令というのは、文禄4年(1595)9月20日付に出した村掟であり、太田氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)にその釈文が掲載されており、次のように解説されています。
 「古橋は三成の母の出生地である。三成が関ヶ原から逃れて古橋に至り、そこで捕縛されたのも、この地が幼少から見知った土地であったからであろう。古橋は石田家にとって、このように特別な地なのである。その由緒深い地は、石田家の正嫡であった正澄に所領として与えられていた可能性は高いであろう」と。
 正澄が堺政所(奉行)に就任したのは、太田氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)によれば、「文禄3・4年頃から」だと記されています。
 正澄が諸大名をもてなしたことについては、谷氏の同書では、「上京した佐竹義重が三成不在時に正澄を頼」ったことが挙げられていますし、太田氏の同書には「弟三成と同様、島津氏と豊臣政権との『取次』も行っている」こと、「三成と同様に秀吉政権の奉行として活動していたこと」などが記されています。朝鮮出兵の際、正澄が「名護屋城普請や諸将の出陣の手配に当たっている」ことも太田氏の同書で述べられています。
 また谷氏の同書では、「父同様に読書を重んじており、夜に西笑承兌を自らの伏見屋敷に招いて論語講説を受けている」との渡辺世祐氏の指摘、「寿聖院の伯蒲恵稜も某僧侶の身上のことについて、正澄へ取り成すよう承兌に依頼し、音信もしていること」(慶長3年8月18日付の伯蒲恵稜書状)も記されています。
 なお、正澄については、谷氏の同書では取り上げられていませんが、三成とは別家であり、共に豊臣政権を支えたという水野伍貴の見解もあります。

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