関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像23810「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」71「総論」71 関ヶ原開戦4

<<   作成日時 : 2018/09/02 01:58   >>

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  谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、8月8日に三成が佐和山から大垣城に入ったことについて、「大垣は以前の所領であった神戸にも近く、馴染みの深い地であった」という中野等氏の見解が紹介されています。
 このことについて、中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、「三成の大垣入城には、故地に拠ることで、戦況を優位に進めようとする戦略があったのだろう」と指摘されています。
 谷氏の同書には、大垣城の三成について、次のような批判がされています。
 「この間、三成は各所の連携勢力に向けて長文の書状を発信する。やや情勢を楽観視した内容ともとれるが、生前の秀吉が合戦時に誇張と虚実を織り交ぜて全国へと吹聴していた先例を考え合わせると、そうした方法を真似たものといえよう。しかし、正確な情報収集ができていなかった点が秀吉との差でもあった」と。
 三成は賤ケ岳の戦いでも諜報活動に従事していますから、情報収集の大事さはよくわかっていたはずですし、関ヶ原でも各地の情報収集に努めたはずです。もっとも、上杉氏との連携に関しては、沼田経由で、沼田を頼みにしていましたから、その沼田領の真田信之が家康方に付いたため、このルートは途絶えてしまい、三成にとっては大きな誤算だったに違いありません。東海道の諸将も家康方に付いたため、その方面の情報が三成の手に入らず、家康の西上に気づかなかったということもよく言われますが、これも本当にそうだったのか、検討の余地はあるのではないでしょうか。
 9月14日の夜、三成らは大垣城を出て、関ヶ原方面に移動しますが、この理由、及び戦いが行われた場所、戦いの推移についての白峰氏の見解が次のように紹介されています。
 「小早川秀秋の翻心が明らかとなり、大谷吉継を助けるための行動であったと見る。佐和山へ引き返して戦線を立て直すことも視野に入っていたであろう。なお、著名な布陣図は後世の創作であり、戦い当日の15日には三成を含めた『西軍』の主力部隊は山中地域周辺に密集していたという。小早川勢が即座に裏切ったこともあり、先に関ヶ原方面に布陣した大谷吉継隊が壊滅した後、巳刻(午前10時頃)には三成らの軍勢も交戦状態となり、正午頃には総崩れとなっていた」と。
 三成方の山中への移動の理由については、白峰氏の「通説打破!関ヶ原合戦の真実」(『歴史群像』2017年10月号所載)の中で、「山中に布陣した石田方本隊は、家康が南宮山の毛利勢に対して攻撃を仕掛ければ、その背後もしくは側面に回りこみ、徳川勢を南宮山の毛利勢と挟撃するつもりだったのではないだろう」という新たな見解が示されています。
 

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