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zoom RSS 三成の実像2399 谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」6 書状の宛先・佐和山支配

<<   作成日時 : 2018/09/20 10:52   >>

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 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」の「第一章 三成の一族」の中で、三成書状の宛先の内訳が示されていました。一番多いのは島津忠恒宛てのものが17通、真田信幸宛のものが16通、島津義弘宛てのものが14通、上杉景勝宛てのものが10通、直江兼続宛てのものが9通、相良頼房宛のものが8通、長束正家宛てのものが7通といった具合です。
 三成は島津氏、上杉氏、相良氏の取次でしたから、それらの家中への書状が多いのは当然かもしれませんが、一番多いのが、島津氏の跡継ぎである忠恒宛てというのが、意外に感じました。その父の島津義弘は、豊臣政権寄りでしたから、義弘宛てのものが多いのは当然かもしれませんが、忠恒宛てのものがそれより多いのは、島津氏の後継者と目されていた久保が朝鮮半島で亡くなり、忠恒が後継ぎになったため、三成は忠恒に対して後継者としての指南をしており、そういうことも影響しているのかもしれません。
 真田信幸宛てのものが2番目に多いのは、真田家が私信的な三成書状を江戸時代ずっと保管していたからです。
 谷氏の講演会で、三成の佐和山支配についても述べられていましたが、その前に水口城主であったことは否定されていました。そのことについては、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「近江・水口の章」の中で、やはり否定的な見解が示されています。
 三成が秀次事件の後に清洲への加増転封、小早川秀秋の転封の際、筑前への加増転封の話があったことにも触れられていましたが、その理由について、「領知が少なくとも、自らの出身地である近江周辺で所領を持つことにこだわったのでは」と推測されていました。そういう面があったことは否定しませんが、三成は秀吉のそばで豊臣政権の中枢にいて、奉行としての仕事を続けたかったのではないかと見ています。
 三成が佐和山城に入ったのは、天正19年のことであり、文禄4年に、約20万石、父・兄・代官分も含めると約30万石の大名になったと説明されていました。三成が天正19年に佐和山城主になったのは伊藤真昭氏の見解に基づくものであり、正式の城主ではなく、代官領の城代としての資格でした。この見解は、今ではすっかり定着していますし、水口城主でなかったことについても同様です。もっとも、今でも、三成が水口城主であったと説明されている小説やテレビ番組も時おり見かけますが、なかなか定説を覆すのは難しいものだとつくづく感じます。
 三成が「出頭人」「奉行随一」だったという見解については、増田長盛の方が上位であったということは谷氏の「総論 石田三成」で触れられていますし、講演会でも同様の話がありました。三成が奉行筆頭と見なされたのは、関ヶ原の戦いの責任を三成一身にかぶせようとする意図の表れではなかったでしょうか。

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