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zoom RSS 三成の実像2400 谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」7 秀吉の意図にそぐわない動きも

<<   作成日時 : 2018/09/21 10:27   >>

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 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」の「第三章 三成の実物像」の中で、諸事件における三成についても触れられていました。
 千利休の切腹については、三成が奉行の一人として妻子を尋問し、妻を拷問させたという噂が広まったが、これは誤報だったと説明されていました。このことは谷氏の「総論 石田三成」で詳しく述べられていますし、拙ブログでも取り上げました。実際に三成が取り調べたのは利休の妻の宗恩だけであり、しかも宗恩はこの後も存命しています。
 二十六聖人殉教に際しては、三成は捕縛者の数を減らし、減刑するように秀吉に交渉したこと、たくさんのキリシタンの人のリストをあげた人々に対して、三成は「汝は汝の道を歩め」と言って、越権行為はするなと戒めたと説明されていました。
 三成は秀吉の奉行として活動することにより、世間では厳しい処罰を行なう人として認識されていたが、実際には、三成は秀吉の意図にそぐわない動きも見せており、自らの職務への信念やプライドを持っていたとも述べられていました。
 三成は一般の人々にとっては、秀吉の命令に唯々諾々と従う冷酷な人物として捉えられていたのでしょうし、その見方が江戸時代から現代に至るまで続いている気がしますが、個々に見ていくと、決して秀吉の命令をそのまま実行していたわけではなく、ある時は自分の判断でことに当たっていたことがわかります。秀吉の命令を受けて、どう自分なりに処理していくか、そこに三成なりの苦悩があったのでしょうし、心ある身近な人々はそれをよくわかっていたに違いありません。それだから、三成のまわりに武将たちが集まったのでしょうし、その苦悩が見えていない人々は、三成のことを誤解して、対立を深めていったのではないでしょうか。
 三成が「戦下手」と思われているという点については、忍城の水攻めが取り上げられ、これは実際は秀吉の指示でシンボリックな攻め方だったと説明されていました。谷氏自身が、三成が本陣を置いた丸墓山古墳の上に立って、起伏がほとんどない広大な平坦な地域を水攻めは困難だとわかったと述べられていました。このことは、かねてから中井俊一郎氏によって指摘され、私も中井氏らオンライン三成会の人々と現地に足を運んで実感したことです。
 三成が領内に掟書を出して民衆を保護したという見方については、訴訟の際は百姓にも手続きを踏まえて行うように指示していることなどから、民衆の権利と義務を明確化したと指摘されていました。それを民衆を育てようとする姿勢の表れだとも述べられていました。これらのことも、谷氏の同書でも記されていますし、拙ブログでも触れました。

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